第82話 夜の余白(フェリクス視点)
アレンが中央聖堂へ向かったあと、西塔には静けさだけが残る。フェリクスは数字、祈り、噂、人の苦しみの届かなさを見つめる。
アレンが中央聖堂へ呼ばれて西塔を出たあと、部屋は急に静かになった。
静かになること自体は珍しくない。もともと西塔の書斎は、声の多い場所ではない。紙をめくる音と、ときおり窓の外を渡る風の音、それからペン先が紙を擦るかすかな響きだけで、一日の大半は過ぎていく。だが、その日の沈黙はいつもと少し違っていた。誰かが去ったあとの静けさというより、言葉だけがまだ部屋のどこかに残っていて、人がいなくなったぶんだけ、それがかえってはっきり聞こえてしまうような静けさだった。
私は机の上の記録へ視線を落としたまま、しばらく文字を追っていた。南区の井戸の水位、桶一杯を汲むまでにかかる時間、昨日と今日で増えた列の人数。数字は整っている。だが、その整いは今の部屋の空気とはどこか噛み合わなかった。数字は人を鎮めない。祈りも、噂も、恐れも、そのままでは数字にならない。数字になった時には、すでに別のものになっている。
アレンは、戻れば何か言うだろうと思った。あの男は、分からぬことを分からぬまま抱えることに、あまり向いていない。いや、抱えられぬわけではないのだろう。だが抱えたままにしておくと、やがて必ず、それを量るための言葉を探し始める。そういうところがある。
私はそこでふと、先ほどまでこの部屋にいたマティアスの顔を思い出した。
理解した顔ではなかった。納得した顔でもない。むしろ、理解できぬことを理解した顔だった。自分が見ているものと、こちらが見ているものとが違う、その違いだけは確かに分かった顔である。あれは手強い。怒って去る者より、よほど後を引く。怒りは言葉を閉じるが、理解できなさは、時に人の中で長く働くからだ。
私はペンを置いた。
窓の外には、雲のない空が広がっていた。昼を過ぎた光は白く乾いていて、庭の石は遠目にも熱を蓄えているように見える。城門の方角はここからは直接見えない。だが人が集まっていることくらいは、報告を待たずとも分かった。沈黙の前で人は必ず集まる。答えがない時、人は誰かのもとへ行き、問いを形にしようとする。問いそのものには耐えられずとも、問いを誰かに負わせることならできるからだ。
もし私が命じれば、彼らは従うだろうか、と一瞬だけ考えた。
井戸へ触れ、水を満たせと。空へ向かい、雨を呼べと。あるいは、これは奇跡ではない、ただ帰れと。どの言葉も、発すれば人を動かすのだろう。動かすことはできる。だが、動かすことと正しいことは同じではない。そこを取り違えた言葉は、最初は役に立つ顔をしていても、やがて別のものになる。
そのことを、理解されるとは思っていない。
思ってはいないが、理解されぬことが何も残さぬわけでもないと知ったのは、いつ頃からだったか。以前の私は、他者に届かぬことを欠落とは思わなかった。ただ見えているものが違う、それだけのことだと考えていた。今もその考え自体は変わらない。だが、違うものを見ているという事実が、そのまま相手の苦しみになることがあるのだと、いまは知っている。
マティアスは民を見ている。病む者、飢える者、祈りにすがる者を見ている。アレンもまた、人の顔色の方をよく見る。二人はその意味で、私よりまっすぐだ。私は彼らのように見てはいない。見ているのは言葉であり、形であり、濁りがどこから生まれるかという、その手前の裂け目である。だから彼らにとって私は遅く見えるだろうし、冷たくも見えるだろう。それは誤解ではないのかもしれない、と私は思った。
ただし、それでもなお、私はそこを離れられない。
もしもう少し人の側へ寄れば、届く言葉はあるだろう。慰めになる言葉もあるだろう。だが、届くためだけの言葉は、時に届いたその瞬間から崩れ始める。削られ、急がれ、繰り返され、ついには正しさの顔をして誤りになる。私はそれを最も恐れている。そして恐れている以上、知らぬふりはできない。
それが孤独なのかどうかは、分からない。
孤独と名づければ、それは別の感傷に変わる気がした。名づけることで、自分の立っている場所を正当化し始めるかもしれない。それは望ましくない。ただ、同じ部屋に人がいても、最後に見ているものが違えば、人は並ばない。その事実は、部屋の静けさの中で、言葉より先に形を持っていた。
私は再び机の上へ視線を戻した。紙の余白が残っている。まだ書けることがあるのか、書くべきでないから空いているのか、自分でも分からない場所である。指先でその余白に触れると、紙は冷たかった。
その冷たさに触れていると、アレンの顔と、マティアスの顔とが、別々の向きで思い浮かんだ。アレンはなお問いを持ち帰るだろう。マティアスは理解できぬものを抱えたまま、南区の人々の方へ戻っていく。どちらも、私の言葉の外で傷つくかもしれない。私が守ろうとしているものが、そのまま誰かの慰めにならぬことも、むしろ慰めを拒んだように見えることもある。そのことまで含めて見えてしまうようになったからといって、見ているものを変えることはできない。変えれば別の誤りになると知っているからだ。
それでも、美は変わらない。
変わらぬものを見ているからこそ、変わり続ける人の苦しみと並べぬことがある。そのことを知るのは、安堵ではなかった。ただ、自分の立つ場所の輪郭が、鋭く、逃れにくく見えるようになっただけである。ならば結局、引き受けるほかはない。理解されぬことも、遅いと見られることも、その遅さの外で傷つく者がいることも、すべて含めて。
やがて廊下の向こうで、かすかな足音がした。
アレンが戻ってくるのだろう、と私は思った。あの男は何かを持ち帰る。答えでなくとも、答えになり損ねた何かを。そしておそらく、それをまたこちらへ置くだろう。
私はペンを取り上げ、しかしすぐには何も書かなかった。
まだ言葉になっていないものがある。言葉にすれば形を得るが、形を得たものは、もう後戻りできない。だから今は、書かぬまま待つほかはなかった。
その待つあいだだけは、部屋の静けさが、わずかに重く、しかし空虚とまでは言えぬものに思われた。
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【次話予告】
中央聖堂に残った老枢機卿は、奇跡を求める民と、沈黙を選ぶ王子の間に立つ。祈りと命令は何が違うのか。神の沈黙に耐えられぬ人々は、やがて誰かの名を標として求め始める。
次回の投稿は明日21時頃の予定です。
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