第80話 届かない言葉(アルベルト視点)
アルベルトは祈りの形を守ろうとする。だが乾いた街で、人々が求めるのは意味ではなく水であり、神の沈黙は重く響く。
朝の祈祷を終えた頃、石段の外がいつもより騒がしいことに気づいた。中央聖堂の扉は分厚く、よほどの声でなければ内側には届かない。それでも今朝は、祈祷文を読んでいる最中から、低いざわめきが石の壁を通して伝わってきた。言葉の内容は聞き取れない。ただ、人が集まっているということだけは分かる。
祈祷を終え、書見台の前を離れながら、私は一度だけ天井を見上げた。高い丸天井の頂点には光の差し込む開口部があり、そこから白く乾いた光が落ちてきている。今日も空は晴れている。雨の気配はない。
(……また今日も、か)
石段を降りると、思っていた以上の人数が集まっていた。水桶を持った女、荷を抱えたまま立ち止まった職人、井戸へ向かう途中で足を止めた老人。皆が同じ方向を向いているわけではないが、誰も家へ戻ろうとしていない。通りのあちこちで、人々は同じ話を繰り返していた。
私は石段の上で足を止め、そのまま群衆に向かって語り始めた。
祈りは神に委ねられるべきものだ。天の恵みを人の言葉で命じることはできない。苦しみの中にあっても、祈りの形を乱してはならない。人が求めるままに天が応じるのなら、それはもはや祈りではなく術になってしまう。
言葉を選ぶのに迷いはなかった。長年繰り返してきた言葉だからではない。それが正しいと信じているからだ。苦難の中でこそ、人は形を保たなければならない。形が崩れれば、残るのは叫びだけになる。
しかし石段の下の顔は、その言葉を受け取れる顔ではなかった。
「それで水が出るのか」
低い声が群衆の中から上がる。私は答えようとした。だが言葉を続けようとした瞬間、別の声が重なり、さらに別の声が続いた。ざわめきは壁のように厚く、私の声はその中に吸われていく。
石段の下で視線が散っていく。誰も私を見ていない。
(……届かない)
私は石段の脇に立ち、しばらくその光景を見ていた。通りの向こうからまた別の集団がやってきて、同じ話を繰り返している。
第二王子はやれるのにやらない。
だったら城に言えばいい。
頼めばいい。
声の調子は怒りというより、乾いた確信に近かった。人は飢えている時、正しい話よりも、すぐ腹に落ちる話を選ぶ。そのことは理解している。理解しているが、だからといって祈りを曲げることはできない。
できない、と私は思う。それが正しいはずだからだ。
(……なぜ、答えがない)
その問いは、群衆に向けたものではなかった。
私は聖堂の石壁に背を向け、通りの方へ歩き出した。南区の井戸へ向かえば、マティアスがいるはずだった。あの男は私のように言葉を積まない。短く切った祈りを、ただ人々の中に置く。それが届いているかどうかは、あの男自身にも分かっていないだろう。
井戸へ向かう通りを歩きながら、私は空を見上げた。雲はない。今日も、昨日も、その前の日も、ずっと同じ空だ。
神は沈黙している。
いや、そう言うのは正確ではない。神は常にそこにある。ただ、人間が聞きたい形では答えない。それが神というものだと、修道院で教わった。苦難は試練であり、その意味は後になって分かるものだとも。
私はその言葉を信じてきた。
だが南区の井戸が三つ目まで干上がり、水桶を抱えた女が列に並び、老人が乾いた目で空を見上げている。その光景の前で、試練の意味を語ることが、今日はどこか遠く感じられた。
(……これは何のための沈黙だ)
その問いが浮かんだ瞬間、私は足を止めた。石畳の上に影が落ちている。自分の影だ。細長く、乾いた地面の上に伸びている。
信仰に疑いを持つことと、疑問を持つことは違う。そう自分に言い聞かせてきた。神の意志を問うことは許される。だが今浮かんだのは問いというより、もっと暗い感覚だった。答えを待ち続けることへの、静かな疲弊である。
私は再び歩き出した。
南区の井戸が見えてくると、マティアスの声が聞こえた。短く切られた祈りが、群衆の中に静かに置かれている。その声は私の言葉よりも小さいが、列の端まで届いているように聞こえた。
「主よ、水を」
井戸の縁に並んだ人々が、その言葉を繰り返す。
だがその後には、必ず別の声が続く。
「それで、第二王子はどうするんだ」
祈りと噂が、同じ井戸端に並んでいた。
マティアスはそれを聞きながら、祈りを止めなかった。
私もまた、止めてはならない。
そう思いながら、なぜ今日に限って天の沈黙がこれほど重く感じられるのかが、自分でもうまく分からなかった。
お読みいただきありがとうございます。
【次話予告】
アレンは中央聖堂へ呼び出される。枢機卿が問うのは、第二王子の様子と、噂への考えだった。奇跡を求めることと、奇跡を命じることは違う。その言葉は正しい。だが城門前の人影は、なお増え続ける。
次回の投稿は明日21時頃の予定です。
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