第79話 届かない言葉(アレン視点)
宰相が否定しても、噂は別の形で広がっていく。アレンは街を歩き、正しい言葉が乾いた喉に届かない現実を見る。
翌朝、城門へ続く広場は昨日よりも早い時刻から人を集め始めていた。まだ陽は高くないにもかかわらず、王城へ向かう通りにはいくつもの人の流れができている。井戸から戻る者、市場へ向かう者、荷を担いだ職人や水桶を抱えた女たちまで、皆が途中で足を止め、同じ話を繰り返していた。
昨日、宰相がこの広場で何を言ったのか、俺は門楼の上からきちんと聞いている。第二王子殿下にはそのような力はない、雨を降らせるような魔術は存在しない――あの人はそう明言した。声は広場の端まで届いていたし、言葉もはっきりしていたはずだった。
だが、その言葉はどうやら城壁の外へは届かなかったらしい。
通りを歩くうち、耳に入ってくるのはまったく別の形になった話ばかりだった。
「聞いたかい。第二王子はやれるのにやらないんだってさ」
水桶を抱えた女がそう言い、向かいから来た男が頷く。
「やっぱりそうなのか」
(……もうそこまで行ったか)
昨日の井戸端で止めようとして、誰にも聞かれなかった光景が頭に浮かぶ。噂というものは、一度形を持つとあっという間に歩き出すらしい。
南区へ向かう通りでは、同じ言葉が別の口から何度も繰り返されていた。第二王子は魔術を使える、雨を降らせられる、なのに城は動かない。昨日までは「頼めばいい」という調子だった話が、今日はもう「やらない」に変わっている。
誰も確かめたわけではない。それでも同じ話を三度聞けば、人はそれを事実のように扱い始める。
中央聖堂の前へ出ると、石段の下に人だかりができていた。中から祈祷文の声が聞こえる。高い天井の下で反響した声が、石の内陣を満たし、その整った響きが扉の外へ流れてくる。俺は人垣の後ろから中を覗いた。
書見台の前に立っているのはアルベルトだった。いつもと同じく乱れのない声で祈祷文を読み上げている。句の切れ目も沈黙の置き方も正確で、言葉の順序は一つも崩れていない。こういう時ほど、あの男は整えられた言葉を崩さない。
祈祷が終わると、彼は石段へ出てきて人々に向かって語り始めた。
祈りは神に委ねられるべきものであり、人が結果を奪い取りに行くものではない。天の恵みを人が命じることはできず、苦しみの中にあっても祈りの形を乱してはならない。
言葉としては筋が通っている。聖職者としては、たぶん正しい。
だが、その場にいた連中の顔は、もうその正しさを受け取れる顔ではなかった。
「それで水が出るのか」
低い声が群衆の中から上がる。別の男が続けた。
「祈ってばかりで井戸は深くなるのか」
アルベルトは何か言い返そうとしたが、その声は途中で群衆のざわめきに吸われた。
整えられた言葉は、整いすぎていると乾いた喉には入っていかない。人は飢えている時、正しい話より、すぐ腹に落ちる話を選ぶ。
(……そりゃそうだろ)
石段の下では、誰もアルベルトの言葉を聞こうとしていなかった。視線は彼ではなく、通りの方へ向いている。
通りの向こうからまた別の集団がやってきて、同じ話を繰り返す。
「第二王子はやれるのにやらないんだろう」
「だったら頼みに行けばいい」
「城に言えばいい」
俺は人垣の横から声をかけた。
「落ち着け。城に押しかけても話が通るわけじゃない」
振り向いた男は俺を一瞥して、面倒そうに言った。
「じゃあどうする」
俺は答えられなかった。
男はそれ以上何も言わず、すぐ通りの方へ視線を戻す。俺の言葉は、それだけで終わった。
中央聖堂を離れ、南区の井戸へ向かうと、今度はマティアスが人々の前に立っていた。こちらは逆に長く話さない。声を張るわけでもなく、祈りを短く切って群衆の中へ置いている。
「短い祈りを続けてください」
彼の言葉は井戸の列のあちこちで繰り返された。
「雨を」
「主よ、水を」
井戸の縁に並んだ人々の口から、その祈りが確かに何度も聞こえた。
だが、その祈りの後には必ず別の言葉が続く。
「……それで、第二王子はどうするんだ」
祈りと噂が同じ井戸端に並んでいた。マティアスはそれを聞いていたはずだが、それでも祈りを止めなかった。
井戸の列の後ろで、一人の男がぽつりと言った。
「王城へ行こう」
今度は誰も笑わなかった。むしろ当然のように、何人かが桶を持ち上げ、通りの方へ向きを変える。女たちも若者も、その後ろへついていく。
誰かが号令をかけたわけではない。だが一度流れができると、人は驚くほど素直にそちらへ動く。
俺は通りの端に立ち、その様子を眺めていた。昨日と同じだ。声をかけても止まらない。
城の方角へ、少しずつ人が増えていく。
遠くに白い城壁が見える。その手前の広場には、もうかなりの人数が集まり始めていた。まだ怒鳴り声はない。だがその静かなざわめきの方が、むしろ厄介だった。
怒鳴っているうちはまだ熱だ。だが低い声で同じ言葉を繰り返す群衆は、妙に腹が据わっている。
俺はその光景をしばらく見てから、城へ向かって歩き出した。
西塔へ戻れば、第二王子殿下はきっと机に向かったままだろう。アリシアはまた「そうですか」と言うだけかもしれない。それでも報せないわけにはいかない。
城門が近づくにつれ、人のざわめきはさらに重く聞こえてきた。乾いた空の下で、その声だけが妙に湿っている。
城門前のざわめきは、昨日より確実に重くなっていた。
俺は門をくぐりながら、小さく息を吐いた。
(……これ、ほんとに面倒なことになるな)
お読みいただきありがとうございます。
【次話予告】
同じ朝をアルベルトの側から見る。祈りの形を守ろうとする彼の言葉は群衆に吸われ、神の沈黙はこれまでになく重くのしかかる。信仰は揺らがない。だが、答えを待つ疲れだけが静かに残る。
次回の投稿は明日21時頃の予定です。
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