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近衛の本領  ~王族から王国を護るお仕事です~(第三章連載開始)  作者: t.maki
第2章 第二王子フェリクス編
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第75話 輔弼近衛は密偵する(アレン視点)

宰相の命で、アレンは私服のまま南区を歩く。井戸、市場、酒場で彼が聞いたのは、第二王子へ向かい始めた人々の声だった。



南区を歩きながら、俺は胸の奥で何度目かの溜息を押し殺した。宰相からは「街の様子を見てこい」とだけ言われている。命令としては簡単だが、実際にやることは面倒だ。市場を歩き、井戸を見て回り、人が何を話しているかを聞いてくる。近衛の仕事というより、どう考えても聞き込みである。


しかも今回は私服だ。近衛の制服では目立つからだと宰相は言った。理屈は分かるが、慣れない格好というのは落ち着かない。


(……聞き込みか)


南区の空は高く、乾いていた。雲はない。風だけが細い砂の匂いを運んでくる。通りの両側には店が並んでいるが、いつもより客足は鈍い。品物を見て立ち止まる者より、水桶を抱えて急ぎ足で通り過ぎる者の方が目についた。


市場の入口近くでは、樽に張った水を売る屋台の前に人が集まっている。値札は昨日より高く書き直されていた。売り手は肩をすくめ、買い手は眉を寄せる。怒鳴り声までは上がっていないが、どの顔にも同じ乾いた苛立ちが浮かんでいる。


(……嫌な感じだな)


水が減ると、人はまず不機嫌になる。故郷の子爵領でもそうだった。最初は「今年は雨が遅い」で済んでいたものが、井戸の水位が下がり、川の流れが細くなってくると、誰もが少しずつ声を尖らせ始める。畑のこと、家畜のこと、値の上がった穀物のこと。どれも間違ってはいないし、どれもすぐにはどうにもならない。だから余計に空気が悪くなる。


井戸の周りにはいつも以上に人が並んでいた。桶を下ろす縄の音が長く響き、引き上げられた桶の底には薄く光るほどの水しかない。


列の中の女が言う。


「また浅くなった」


後ろの男が返す。


「今朝の水売りはさらに値を上げた」


別の老人が言う。


「中央聖堂じゃ毎日祈ってるそうだ」


それを聞いた若い職人がぼやく。


「祈りで腹は膨れねえ」


短い言葉が次々に出ては消える。


少し離れたところでは、南区の礼拝堂から出てきたらしい者たちが小さな声で同じ言葉を繰り返している。


「雨を」

「主よ、水を」


短い祈りだった。覚えやすく、誰でも口にできる。歩きながらでも言えるし、桶を引き上げながらでも言える。長い祈祷文より、こういう言葉の方が人の口には残るのだろう。


(……これはこれで、広がるのが早いな)


ただ、それだけならまだよかった。祈りは祈りだ。水のない年に人が祈るのは珍しいことではない。問題は、その祈りの合間に別の言葉が混じり始めていたことだった。


井戸の列の後ろで男が言う。


「日蝕を起こしたのは第二王子だったよな」


何気ない言い方だった。だが、それを聞いた別の男が言う。


「なら雨も何とかできるんじゃないのか」


その瞬間、周りの空気が一瞬だけ止まった。


誰も笑わない。否定もしない。ただ桶の中の水を見つめる者、空を見上げる者、黙って縄を引く者がいて、その沈黙の中に言葉だけが残る。


しばらくして市場へ移ると、同じ話が別の形で出ていた。


「王子なら空を動かせるんだろ」


「だったら雨くらい」


「日蝕をやったんだ、できてもおかしくない」


言い方は少しずつ違う。だが中身は同じだった。第二王子は空に手をかけられる。なら雨も呼べるかもしれない。


ただ、それだけでは終わっていなかった。


酒場の前まで行ったときだった。昼間の酒場は普段ならもっとだらけた空気があるものだが、その日は妙に静かだった。


中では水で薄めた酒を前に、男たちが真面目な顔で話している。


「王子に頼めばいいじゃないか」


「頼むって、誰がだ」


「みんなで言えばいい。王城へ行ってさ」


そこまで聞いて、思わず足を止めた。


(……おいおい、そっちへ行くのか)


できるかもしれない、から、頼めばいい、へ変わっている。井戸端で思いつきのように出た言葉が、市場を抜け、酒場へ来る頃にはもう「だったらどうするか」という話になっている。


通りへ戻ると、別のところでも同じだった。


「王子なら降らせられる」


「なら頼めばいい」


「王城へ行けばいい」


誰かが強く言うと、別の誰かが小さく頷く。まだ怒号ではない。だが空気はもう柔らかくなかった。乾いた石畳の上に火種が散っていて、誰かが一歩強く踏み込めば、それだけで燃え広がりそうな感じがある。


歩きながら、故郷の旱魃の年を思い出していた。あのときも最初は似たようなものだった。雨の話、水の話、領主は何をしているのかという話。誰かが悪いわけではないのに、誰かに何とかしてほしいという気持ちだけが膨らんでいく。


そうなると、人は祈るだけでは足りなくなる。手の届くところに、都合のいい相手を見つけたがる。


今の王都では、それが第二王子なのだろう。


日蝕を起こした。魔術が使える。空に触れられる。なら雨も呼べるかもしれない。そんなふうに話が繋がっていく。


(……雑だろ。雑なんだが、人はそういうふうに考えるんだよな)


理屈の細かさなんて関係ない。水が減っている。空に雲がない。誰かが空を動かせるらしい。だったらやらせればいい。そういう筋道の方が、人の腹には落ちやすい。


中央聖堂へ戻る途中、何度も同じ言葉を聞いた。


「王子なら」


「雨を」


「王城へ行けばいい」


祈りの言葉と噂の言葉が、街のあちこちで混じり合っている。どちらも短く、覚えやすく、人から人へ渡りやすい。


門の前で一度立ち止まり、空を見上げた。乾いた青空が広がっている。雨の気配はどこにもない。だが街の中では、もう別の何かが動き始めていた。


(……これはまずいな)


ただ不満が溜まっているだけなら、まだ耐えられる。祈りが広がるだけでも、まだいい。だが「王子に頼もう」が「王城へ行こう」に変われば、そこから先は早い。


宰相には聞いたことをそのまま伝えるしかない。


井戸の噂が市場に移り、市場の言葉が酒場で固まり始めていること。短い祈りと同じくらいの速さで、別の短い言葉が広がっていること。そして、その先にあるのがどう考えても穏やかな話ではないことを。


足を速めた。


背後で、また誰かの声が上がる。


「王城へ行こう」


その言葉が、乾いた王都の空気の中に、妙にはっきりと残っていた。



お読みいただきありがとうございます。


【次話予告】

城下の騒ぎはついに王城を動かす。国王、王妃、宰相、第二王子が集められ、問われるのはただ一つ。雨を降らせることはできるのか。だが王子の答えは、民が望むものとは違っていた。



次回の投稿は明日21時頃の予定です。


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