第74話 広がる噂(アルベルト視点)
井戸端の噂は、市場へ、酒場へと移っていく。アルベルトは祈りの形を守ろうとしながら、第二王子に向かう言葉の重さを知る。
中央聖堂の石段を下りると、乾いた空気が頬に触れた。
空は高く澄み、雲は一つもない。昼の光は強いのに、どこか色が薄い。雨の遠い空だった。
門前の広場では、人々が桶を並べて井戸の順番を待っていた。縄が石の縁を擦る音が、一定の間隔で響く。水を汲むという単純な動作が、いつもより長く感じられる。
声が聞こえた。
「日蝕を起こしたのは第二王子だったらしい」
桶を抱えた女が言った。
それを聞いていた男が肩をすくめる。
「なら雨も……」
言葉はそこで止まる。
だが別の男が続けた。
「降らせられるんじゃないか」
小さな笑いが起こる。冗談のような笑いだったが、すぐに消えた。
「王族だろ」
「魔術を使うんだろ」
言葉は短く、低い。だが消えない。
井戸の縁に落ちた小石のように、その場に残っていた。
私はその場を離れ、石畳の通りへ出た。
市場は昼の客で賑わっているはずだったが、今日は妙に静かだった。人は多いのに声が低い。
桶を並べた水売りの前で商人が言う。
「今朝も水の値が上がった」
客の男が眉を寄せる。
「雨が降らんからな」
そのとき隣の店から声が聞こえた。
「王子なら降らせてくれるって話だ」
市場ではいつも多くの言葉が生まれ、また消えていく。噂もその一つに過ぎない。だが今日は、その言葉が何度も耳に入った。
肉屋の前でも同じ話が出る。
「日蝕を起こしたんだろ」
別の男が答える。
「だったら頼めばいい」
誰も笑わない。否定する声もない。
市場の奥では別の祈りが続いていた。
「雨を」
女が小さく言う。
「主よ、水を」
老人が答える。
南区で始まった短い祈りだった。長い祈祷文よりも、こうした言葉の方が人の口には残る。
だがその祈りの合間に、別の言葉が混じる。
「王子なら」
そのあとに続く言葉は人によって違う。
「降らせられる」
「降らせてくれる」
「降らせられるはずだ」
言葉は揃っていない。
だが向かう先は同じだった。
(祈りとは、そういうものではない)
私は視線を落とす。祈りとは願いをそのまま口にすることではない。整えられた言葉が順序を持ち、意味を保ちながら置かれるものだ。長く整えられた祈祷文は、そのためにある。
人の思いつきが、そのまま神へ届くわけではない。
市場の中央では、水売りの屋台の前に人が集まっていた。樽の中の水は少なく、値札は昨日より高く書き直されている。人々は不満を口にするが怒号にはならない。誰もが空を見る。雲はない。
そこでも同じ話が繰り返されていた。
「王子なら降らせられるらしい」
「なら頼めばいい」
「王城へ行けばいい」
言葉の調子は、井戸端よりも強くなっていた。
石橋を渡る。橋の下の水路は細くなっている。流れは弱く、石の底がところどころ見えていた。
橋の向こうの酒場に入ると、昼の客が数人だけ座っていた。水で薄めた酒を飲みながら話している。
「聞いたか」
一人が言う。
「王子の話だ」
別の男が肩をすくめる。
「またその話か」
だが笑いは続かなかった。
「日蝕を起こしたんだろ」
男は真顔で言う。
「だったら頼めばいい」
沈黙が落ちる。
しばらくして別の男が言った。
「王城へ行くって話も出てる」
杯を置く音が響いた。
誰もすぐには否定しない。
通りへ出る。市場から流れてきた人々が同じ話を口にしている。言葉は井戸から市場へ、市場から酒場へと移っていく。同じ形ではない。だが向かう先は同じだった。
中央聖堂の門の前で足を止める。
背後の通りから声が聞こえた。
「王城へ行けばいい」
振り返らなかった。
――言葉は大事に扱え。
北隅小聖堂で聞いた第二王子の言葉が、胸の奥で静かに蘇る。
あの言葉は、いま街で交わされているこの言葉のことも含んでいたのだろうか。
通りの向こうで、また声が上がる。
第二王子は雨を呼ぶ者である。
お読みいただきありがとうございます。
【次話予告】
アレンは私服で城下へ降りる。命じられたのは、街の様子を見ること。だが彼が聞いたのは、祈りではなく「王城へ行けばいい」という声だった。乾いた王都で、噂はもうただの噂ではなくなっている。
次回の投稿は明日21時頃の予定です。
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