第73話 生まれる噂(マティアス視点)
南区の井戸で、水の減り方が人々の不安を深くする。祈りの場にいたマティアスは、神ではなく人へ向かい始める言葉を聞く。
桶を落とした音が、以前よりも長く井戸の底へ響いていくのが聞こえた。石の縁に当たった木桶が乾いた音を立て、その音が井戸の内壁を伝ってゆっくりと消えていくまでの時間が、以前よりわずかに伸びている。ほんのわずかな違いではあるが、井戸のそばに立っていると、それが確かに分かった。
私は井戸の列の後ろに立ち、その音を聞いていた。
桶を落とした若い男が縄を引きながら舌打ちし、井戸の縁を覗き込んでから顔を上げる。
「また浅くなってる」
後ろに並んでいた女が、桶を抱え直しながら尋ねた。
「昨日よりも?」
男は少し考えるようにして首を振る。
「分からんが……長くなった気がする」
縄は軋みながら井戸の底へ落ちていき、やがて水に触れたらしい鈍い音が返ってくる。列は広場の端まで伸び、人々は桶や水差しを抱えて静かに順番を待っていた。誰も声を荒げたりはしないが、会話は絶えず、乾いた空気の中で低く続いている。
「南の井戸はもう枯れたらしい」
誰かがそう言うと、別の男がすぐに続けた。
「川も細くなってる」
その話題を聞いていた年寄りが、肩をすくめるように言った。
「中央聖堂じゃ毎日祈っているそうだ」
すると近くの若い職人が苦笑しながら答える。
「祈りで雨が降るなら苦労はしない」
小さな笑いが列の中に広がるが、その笑いは長く続かない。乾いた風が広場を吹き抜け、桶の縁を叩く縄の音がまた響く。
やがて列の前の方から別の話題が流れてきた。
「日蝕の話、聞いたか」
私はその言葉に耳を向けた。
井戸の列の中で、話題が自然に変わっていく。
「第二王子だろ」
「空を暗くしたっていう」
「修道院で魔術を学んだとか」
誰も詳しいことを知っているわけではない。ただ、どこかで聞いた断片を思い出すように口にしているだけだった。だがその断片は、同じ方向を指している。
若い職人がふと口にした。
「なら雨も何とかできるんじゃないのか」
その言葉に、列が一瞬だけ静かになった。
誰もすぐには笑わない。井戸の中で桶が揺れる音と、縄を引き上げる軋みだけが聞こえている。
やがて一人の男が肩をすくめる。
「王族だろ」
別の女が言う。
「魔術師なんだろ」
誰かが続ける。
「空を暗くしたなら」
そして別の声が重なる。
「雨くらい」
そのあとに出た言葉は、ほとんど呟きのようだった。
「降らせられるかもしれん」
最初は冗談のような響きだった。しかしその言葉をはっきり否定する者は誰もいない。井戸の列はゆっくりと進み、桶が降ろされ、水が引き上げられる。その間に、同じ言葉が少しずつ形を変えながら繰り返されていく。
「王子なら」
「降らせられる」
「空を動かしたんだ」
井戸の縁で桶が持ち上がると、その底には薄く水が残っているだけだった。それを見た女が小さく息を吐き、空を見上げながら言った。
「雨が欲しいね」
隣の男が答える。
「祈れ」
女は苦笑しながら首を振る。
「祈ってるよ」
その会話の少し離れたところで、別の声が上がった。
「王子に頼めばいい」
それを聞いた誰かが思わず吹き出す。
「王子に頼むだと?」
「どうやって頼むんだ」
列の中に笑いが広がる。だがその笑いも、しばらくすると自然に静まっていった。井戸の縁を覗き込んでいた男が、桶の底を見つめたまま呟く。
「……だが、本当にできるなら」
その言葉を聞いた別の男が、少し考えるようにして言う。
「頼んでもいいじゃないか」
沈黙が落ちる。縄が軋む音だけが続く。
しばらくして、列の前の方で誰かが言った。
「王族なんだろ」
別の声が答える。
「なら王城にいる」
そしてその言葉を受けるように、低い声が続いた。
「王城へ行けばいい」
その言葉に、すぐ笑う者はいなかった。
井戸の列は静かに動き続ける。桶が下り、縄が軋み、水が引き上げられる。その単調な動きの中で、言葉だけが残っていく。
私は井戸の縁に手を置き、その底を覗き込んだ。水面は遠く、暗い。
(これは祈りではない)
祈りは神へ向かう。
だがこの言葉は違う。これは人へ向かっている。
背後で、また同じ声が聞こえた。
「王城へ行けばいい」
私は振り返らなかった。その言葉は、井戸の底よりも深いところへ落ちていくように聞こえた。
お読みいただきありがとうございます。
【次話予告】
アルベルトは中央聖堂を出て、井戸、市場、酒場へと広がる噂を目の当たりにする。短い祈りに混じる「王子なら」という言葉。整えられた祈りを信じる彼の前で、街の願いは別の形を取り始める。
次回の投稿は明日21時頃の予定です。
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