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近衛の本領  ~王族から王国を護るお仕事です~(第三章連載開始)  作者: t.maki
第2章 第二王子フェリクス編
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第73話 生まれる噂(マティアス視点)

南区の井戸で、水の減り方が人々の不安を深くする。祈りの場にいたマティアスは、神ではなく人へ向かい始める言葉を聞く。


桶を落とした音が、以前よりも長く井戸の底へ響いていくのが聞こえた。石の縁に当たった木桶が乾いた音を立て、その音が井戸の内壁を伝ってゆっくりと消えていくまでの時間が、以前よりわずかに伸びている。ほんのわずかな違いではあるが、井戸のそばに立っていると、それが確かに分かった。


私は井戸の列の後ろに立ち、その音を聞いていた。


桶を落とした若い男が縄を引きながら舌打ちし、井戸の縁を覗き込んでから顔を上げる。


「また浅くなってる」


後ろに並んでいた女が、桶を抱え直しながら尋ねた。


「昨日よりも?」


男は少し考えるようにして首を振る。


「分からんが……長くなった気がする」


縄は軋みながら井戸の底へ落ちていき、やがて水に触れたらしい鈍い音が返ってくる。列は広場の端まで伸び、人々は桶や水差しを抱えて静かに順番を待っていた。誰も声を荒げたりはしないが、会話は絶えず、乾いた空気の中で低く続いている。


「南の井戸はもう枯れたらしい」


誰かがそう言うと、別の男がすぐに続けた。


「川も細くなってる」


その話題を聞いていた年寄りが、肩をすくめるように言った。


「中央聖堂じゃ毎日祈っているそうだ」


すると近くの若い職人が苦笑しながら答える。


「祈りで雨が降るなら苦労はしない」


小さな笑いが列の中に広がるが、その笑いは長く続かない。乾いた風が広場を吹き抜け、桶の縁を叩く縄の音がまた響く。


やがて列の前の方から別の話題が流れてきた。


「日蝕の話、聞いたか」


私はその言葉に耳を向けた。


井戸の列の中で、話題が自然に変わっていく。


「第二王子だろ」


「空を暗くしたっていう」


「修道院で魔術を学んだとか」


誰も詳しいことを知っているわけではない。ただ、どこかで聞いた断片を思い出すように口にしているだけだった。だがその断片は、同じ方向を指している。


若い職人がふと口にした。


「なら雨も何とかできるんじゃないのか」


その言葉に、列が一瞬だけ静かになった。


誰もすぐには笑わない。井戸の中で桶が揺れる音と、縄を引き上げる軋みだけが聞こえている。


やがて一人の男が肩をすくめる。


「王族だろ」


別の女が言う。


「魔術師なんだろ」


誰かが続ける。


「空を暗くしたなら」


そして別の声が重なる。


「雨くらい」


そのあとに出た言葉は、ほとんど呟きのようだった。


「降らせられるかもしれん」


最初は冗談のような響きだった。しかしその言葉をはっきり否定する者は誰もいない。井戸の列はゆっくりと進み、桶が降ろされ、水が引き上げられる。その間に、同じ言葉が少しずつ形を変えながら繰り返されていく。


「王子なら」


「降らせられる」


「空を動かしたんだ」


井戸の縁で桶が持ち上がると、その底には薄く水が残っているだけだった。それを見た女が小さく息を吐き、空を見上げながら言った。


「雨が欲しいね」


隣の男が答える。


「祈れ」


女は苦笑しながら首を振る。


「祈ってるよ」


その会話の少し離れたところで、別の声が上がった。


「王子に頼めばいい」


それを聞いた誰かが思わず吹き出す。


「王子に頼むだと?」


「どうやって頼むんだ」


列の中に笑いが広がる。だがその笑いも、しばらくすると自然に静まっていった。井戸の縁を覗き込んでいた男が、桶の底を見つめたまま呟く。


「……だが、本当にできるなら」


その言葉を聞いた別の男が、少し考えるようにして言う。


「頼んでもいいじゃないか」


沈黙が落ちる。縄が軋む音だけが続く。


しばらくして、列の前の方で誰かが言った。


「王族なんだろ」


別の声が答える。


「なら王城にいる」


そしてその言葉を受けるように、低い声が続いた。


「王城へ行けばいい」


その言葉に、すぐ笑う者はいなかった。


井戸の列は静かに動き続ける。桶が下り、縄が軋み、水が引き上げられる。その単調な動きの中で、言葉だけが残っていく。


私は井戸の縁に手を置き、その底を覗き込んだ。水面は遠く、暗い。


(これは祈りではない)


祈りは神へ向かう。


だがこの言葉は違う。これは人へ向かっている。


背後で、また同じ声が聞こえた。


「王城へ行けばいい」


私は振り返らなかった。その言葉は、井戸の底よりも深いところへ落ちていくように聞こえた。



お読みいただきありがとうございます。


【次話予告】

アルベルトは中央聖堂を出て、井戸、市場、酒場へと広がる噂を目の当たりにする。短い祈りに混じる「王子なら」という言葉。整えられた祈りを信じる彼の前で、街の願いは別の形を取り始める。



次回の投稿は明日21時頃の予定です。


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