第72話 祈祷文(アルベルト視点)
中央聖堂に満ちるのは、長く整えられた祈祷文。アルベルトは街に広がる短い祈りを知りながら、変わらぬ形を守り続ける。
中央聖堂の内陣には祈りの声が満ちていた。高い天井の下で祈祷文がゆっくりと読み上げられていく。石造りの壁と柱は声を柔らかく反射させ、言葉は堂内を巡りながらやがて静かに消えていく。言葉は決められた順序に従い、一句が終わるごとに短い沈黙が置かれる。その沈黙を挟んで、次の言葉が続く。
アルベルトは書見台の前に立ち、その文を読み上げていた。
「――天の恵みを賜りし主よ、乾ける地に水を与えたまえ」
声は強くも弱くもない。堂内の奥まで届き、壁に沿って広がり、やがて静かに消えていく。
同じ祈りは昨日も読まれ、一昨日も読まれた。そして今日もまた同じ形で読まれている。中央聖堂では祈りは変わらない。長く整えられた言葉は、決められた順序を守って置かれる。同じ句が同じ位置で現れ、同じ沈黙を挟んで次へ続く。
アルベルトは書見台の頁を静かにめくった。紙の擦れる音が小さく響く。堂内の信徒たちは静かに頭を垂れている。誰も言葉を挟まず、ただ祈祷文の声を聞いている。
「――乾きし地に慈雨を降らせ、飢えたる者を救いたまえ」
祈祷文は長い。だがその長さは意味を守るための長さでもある。言葉は互いに結び合い、順序を保つことで祈りの形を保っている。
堂内の空気は静かだった。人々は声を挟まず、祈祷文の言葉が続くのを待っている。祈祷文は個人の祈りではない。人が思いついた言葉ではなく、長い年月の中で整えられてきた言葉がそのまま置かれている。
最近、街では別の祈りが繰り返されていると聞いていた。
短い祈り。
「雨を」
「主よ、水を」
市場でも井戸端でも、その言葉が口にされているという。
アルベルトはそれを否定したことはない。祈りは誰でも捧げることができる。人が願いを口にすることを、教会が禁じることはない。人は苦しいとき、言葉を探すものだからだ。
だが中央聖堂には中央聖堂の祈りがある。
アルベルトは書見台の祈祷文を見つめた。そこには決められた言葉が並んでいる。句は順序を守り、同じ形で続いている。
そのとき、ふと別の言葉が頭をよぎった。
――言葉は大事に扱え。
北隅小聖堂で聞いた第二王子の言葉だった。
アルベルトの指先が書見台の縁に一度だけ触れる。
祈祷文は続く。
昨日と同じ形で、今日もまた同じ順序で。
堂内には祈祷文の声が満ちている。言葉は順序を守りながら続き、句が終わるごとに沈黙が置かれる。その沈黙のあと、また次の句が置かれる。
アルベルトは最後の句を読み上げた。
祈りは終わる。
堂内には静かな沈黙が落ちた。
信徒たちは頭を垂れたまま動かない。祈祷文の余韻が堂内に残っている。
その沈黙の中で、アルベルトは一度だけ目を閉じる。
外では短い祈りが繰り返されているという。人々が「雨を」と口にしているという。
それでも中央聖堂では祈祷文が続く。
長く整えられた言葉は今日も同じ形で神に向けて置かれる。
そして明日もまた、同じ言葉がここで読まれるだろう。
お読みいただきありがとうございます。
【次話予告】
井戸の水位はさらに下がり、人々の言葉は祈りから噂へと姿を変える。日蝕を起こした第二王子なら、雨も降らせられるのではないか。誰かの冗談だったはずの言葉が、王城へ向かう危うい火種となる。
次回の投稿は明日21時頃の予定です。
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