第71話 短い祈り(マティアス視点)
旱魃の王都で、人々は空を仰ぎ続ける。マティアスは南区の小礼拝堂で、長い祈祷文ではなく、人の口に残る短い祈りを置く。
旱魃が続いていた。雨が降らなくなってから、すでに二月が過ぎている。王都の空は乾ききり、雲はどこにも見当たらなかった。雲がないというより、雲が寄りつく余地のない空だった。高く澄んだ空は一見すると美しくさえあるが、その青の広がりはむしろ雨の遠さを際立たせているように見えた。
南区の小さな礼拝堂の前庭には、昼前になると人が集まり始める。井戸から水を汲んできた者、仕事の合間に立ち寄った者、ただ祈りの場を求めて来た者。衣服も年齢もばらばらで、商人もいれば職人もおり、まだ背の低い子どもが母親の後ろに立っていることもあった。彼らに共通しているのは、時折同じように空を見上げる仕草だけだった。雲の気配がないか、風の色が変わっていないか、誰もが無意識に確かめている。
私は礼拝堂の入口に立ち、その様子を眺めていた。人々は私の方を見ている。だがそれは救いを求める眼差しというより、何かが始まるのを待つような静かな期待に近いものだった。祈りを言葉として置く者を待っている、そんな顔だった。
私は石段を一歩下り、人々の前に立つ。声を張る必要はないと思った。ここに集まった人々は、もともと祈るために来ている。
「長い祈りはここには置きません。覚えられる言葉だけを置きます」
声は大きくはなかったが、前庭の端まで届いた。人々の視線が自然と揃う。
「祈りは長さではありません。届くかどうかです」
それ以上の説明はしなかった。
中央聖堂の祈祷文は長く整えられている。そこには意味があり、順序があり、守られてきた形がある。だがここでは違う。人は覚えられる言葉しか繰り返さない。長い祈りは耳を通り過ぎるだけで、誰の口にも残らない。
だから私は、ただ一つの言葉を置く。
「雨を」
その言葉は前庭の中央に落ちた石のように、しばらく静かに留まっていた。人々はすぐには声を出さない。互いの顔を見たり、地面を見たりして、言葉がどこへ落ちたのかを確かめているようだった。
やがて列の中の女が小さく繰り返す。
「雨を」
その隣に立っていた男が言う。
「主よ、水を」
祈りは短い。短い言葉はすぐに覚えられる。誰かが言えば別の誰かがそれをなぞる。子どもが小さな声で繰り返し、老人がそれに続き、また別の声が同じ言葉を口にする。祈りは決められた順序を持たない。ただ覚えやすい言葉が、人から人へと渡されていくだけだった。
声は重ならないが、途切れもしない。井戸の水を汲むときのように、一人が桶を落とし、別の者がそれを引き上げるように、祈りは静かに受け渡されていく。
「雨を」
「主よ、水を」
私は空を見上げた。雲はない。乾いた空が広がっている。その下で、人々は祈っていた。
長い祈りでは、届かない。
人は覚えられる言葉だけを持ち歩く。覚えた言葉だけを繰り返す。だから私は言葉を短くした。
空は相変わらず乾いたままだった。だがその下で、同じ言葉が人から人へ渡っていく。
「雨を」
「主よ、水を」
祈りは静かに広がっていた。
お読みいただきありがとうございます。
【次話予告】
中央聖堂ではアルベルトが、変わらぬ祈祷文を読み上げる。街に広がり始めた短い祈りを耳にしながらも、彼は整えられた言葉の意味を守ろうとする。だが第二王子の言葉が、胸の奥で静かに響き始める。
次回の投稿は明日21時頃の予定です。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【皆様へのお願い】
面白い/続きが気になると思っていただけたら、
『ブックマーク』、『☆☆☆☆☆』、『感想』、『誤字報告』をいただけると大変励みになります。
(ついでにとても喜びます)
皆さまの声援だけが心の支えです。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★




