第70話 井戸端の噂(マティアス視線)
旱魃の王都で、井戸の水位は下がり続ける。マティアスは南区の井戸端で、人々の不安が第二王子の噂へ変わる瞬間を見る。
旱魃はさらに厳しくなっていた。雨が降らなくなってから二月が過ぎ、王都の空には雲が現れなくなっている。空は高く、乾いた青が広がっていた。雲がないというより、雲が寄りつく余地のない空だった。
南区の井戸の縁には、朝から人が集まっている。桶や水瓶を抱えた者たちが列を作り、順番を待っていた。縄が軋み、桶が井戸の底へ落ちていく音が通りに響く。しばらくして桶が引き上げられると、縁に置かれた桶の底には薄く水が揺れていた。
「……浅くなってるな」
列の中の男が言った。誰に向けた言葉でもない。ただ桶を覗き込んだときの感想が、そのまま口に出ただけだった。
「昨日よりも、だ」
別の男が続く。桶の中の水は底にわずかに残るだけで、揺れるたびに光が弱く揺れていた。
マティアスは井戸から少し離れた場所で、その様子を見ていた。聖職者の衣を着たまま列の近くに立てば、人々は言葉を慎む。だから彼は通りの壁際に身を寄せ、往来を眺めるふりをしながら耳を傾けていた。
市場の方から乾いた風が吹いてくる。砂の匂いを含んだ風だった。王都ではまだ飢えは起きていない。穀物の備蓄はあり、水も完全に尽きたわけではない。だが井戸の縁に並ぶ人々の顔には、不安がはっきりと現れている。
「水の値段、また上がったらしいぞ」
列の後ろで誰かが言った。
「昨日市場で聞いた。樽が一つで銀貨だ」
「そんなにするのか」
「まだ上がるって話だ」
言葉は小さく、しかし途切れない。人々は順番を待ちながら、同じ不安を言葉にしていた。
やがて別の声が混じる。
「祈ってるんだろうな」
「中央聖堂だよ。毎日だ」
「祈祷文か」
「そうだ」
短い会話のあと、誰かが小さく鼻を鳴らした。
「……長いんだよな、あれ」
声は半ば笑いを含んでいたが、冗談というほど軽くはない。乾いた笑いだった。
「長い祈りで雨が降るなら、とっくに降ってるだろ」
誰かが言う。
「やめとけ、聞かれたら叱られるぞ」
別の声が抑える。
それでも会話は止まらない。
女が桶を抱えたまま空を見上げた。
「雨、降らないかな」
誰もすぐには答えない。
縄がきしみ、桶がまた井戸の底へ落ちていく。
「祈れば降るのかね」
誰かが言う。
「どうだろうな」
別の声が答える。
「祈ってるじゃないか」
「中央聖堂で、だろ」
言葉はそこで一度途切れる。
それから、思い出したように誰かが言った。
「そういえば――」
何人かが顔を向ける。
「前に日蝕を起こしたの、第二王子だったろ」
井戸の縁の空気がわずかに止まる。
「ああ」
誰かが頷く。
「あれは驚いたな」
「昼が急に暗くなってな」
「王子の魔術だって話だった」
人々は同じ記憶を辿っている。
「なら……」
男が言いかけて止まる。
縄が引かれ、桶が水面から離れる音がする。
それから、言葉が続いた。
「雨も降らせられるんじゃないか」
誰もすぐには否定しない。
「……そうかもしれないな」
誰かが言う。
「空を動かせるなら、雨も……」
言葉はそこで終わった。
次の桶が引き上げられると、話題はすぐに水の値段へ戻る。
「市場じゃまた上がったらしい」
「本当か」
日蝕の話を続ける者はいなかった。
マティアスは空を見上げた。
雲はない。
(言葉は、こうして生まれる)
乾いた青空が広がっていた。
お読みいただきありがとうございます。
【次話予告】
マティアスは南区の小礼拝堂で、人々の口に残る祈りを置く。長い祈祷文ではなく、ただ「雨を」「主よ、水を」と短く願う言葉。井戸端で生まれた噂とは別に、祈りもまた人から人へ渡り始める。
次回の投稿は明日21時頃の予定です。
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