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近衛の本領  ~王族から王国を護るお仕事です~(第三章連載開始)  作者: t.maki
第2章 第二王子フェリクス編
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第70話 井戸端の噂(マティアス視線)

旱魃の王都で、井戸の水位は下がり続ける。マティアスは南区の井戸端で、人々の不安が第二王子の噂へ変わる瞬間を見る。



旱魃はさらに厳しくなっていた。雨が降らなくなってから二月が過ぎ、王都の空には雲が現れなくなっている。空は高く、乾いた青が広がっていた。雲がないというより、雲が寄りつく余地のない空だった。


南区の井戸の縁には、朝から人が集まっている。桶や水瓶を抱えた者たちが列を作り、順番を待っていた。縄が軋み、桶が井戸の底へ落ちていく音が通りに響く。しばらくして桶が引き上げられると、縁に置かれた桶の底には薄く水が揺れていた。


「……浅くなってるな」


列の中の男が言った。誰に向けた言葉でもない。ただ桶を覗き込んだときの感想が、そのまま口に出ただけだった。


「昨日よりも、だ」


別の男が続く。桶の中の水は底にわずかに残るだけで、揺れるたびに光が弱く揺れていた。


マティアスは井戸から少し離れた場所で、その様子を見ていた。聖職者の衣を着たまま列の近くに立てば、人々は言葉を慎む。だから彼は通りの壁際に身を寄せ、往来を眺めるふりをしながら耳を傾けていた。


市場の方から乾いた風が吹いてくる。砂の匂いを含んだ風だった。王都ではまだ飢えは起きていない。穀物の備蓄はあり、水も完全に尽きたわけではない。だが井戸の縁に並ぶ人々の顔には、不安がはっきりと現れている。


「水の値段、また上がったらしいぞ」


列の後ろで誰かが言った。


「昨日市場で聞いた。樽が一つで銀貨だ」


「そんなにするのか」


「まだ上がるって話だ」


言葉は小さく、しかし途切れない。人々は順番を待ちながら、同じ不安を言葉にしていた。


やがて別の声が混じる。


「祈ってるんだろうな」


「中央聖堂だよ。毎日だ」


「祈祷文か」


「そうだ」


短い会話のあと、誰かが小さく鼻を鳴らした。


「……長いんだよな、あれ」


声は半ば笑いを含んでいたが、冗談というほど軽くはない。乾いた笑いだった。


「長い祈りで雨が降るなら、とっくに降ってるだろ」


誰かが言う。


「やめとけ、聞かれたら叱られるぞ」


別の声が抑える。


それでも会話は止まらない。


女が桶を抱えたまま空を見上げた。


「雨、降らないかな」


誰もすぐには答えない。


縄がきしみ、桶がまた井戸の底へ落ちていく。


「祈れば降るのかね」


誰かが言う。


「どうだろうな」


別の声が答える。


「祈ってるじゃないか」


「中央聖堂で、だろ」


言葉はそこで一度途切れる。


それから、思い出したように誰かが言った。


「そういえば――」


何人かが顔を向ける。


「前に日蝕を起こしたの、第二王子だったろ」


井戸の縁の空気がわずかに止まる。


「ああ」


誰かが頷く。


「あれは驚いたな」


「昼が急に暗くなってな」


「王子の魔術だって話だった」


人々は同じ記憶を辿っている。


「なら……」


男が言いかけて止まる。


縄が引かれ、桶が水面から離れる音がする。


それから、言葉が続いた。


「雨も降らせられるんじゃないか」


誰もすぐには否定しない。


「……そうかもしれないな」


誰かが言う。


「空を動かせるなら、雨も……」


言葉はそこで終わった。


次の桶が引き上げられると、話題はすぐに水の値段へ戻る。


「市場じゃまた上がったらしい」


「本当か」


日蝕の話を続ける者はいなかった。


マティアスは空を見上げた。


雲はない。


(言葉は、こうして生まれる)


乾いた青空が広がっていた。


お読みいただきありがとうございます。


【次話予告】

マティアスは南区の小礼拝堂で、人々の口に残る祈りを置く。長い祈祷文ではなく、ただ「雨を」「主よ、水を」と短く願う言葉。井戸端で生まれた噂とは別に、祈りもまた人から人へ渡り始める。



次回の投稿は明日21時頃の予定です。


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