第69話 扉の脇(アレン視点)
難しい話は分からない。だが、水が減れば人が変わることだけは分かる。
北隅小聖堂の内室の扉の前に立ちながら、俺は背筋を伸ばしたまま動かなかった。宰相から「出席せよ」と言われたときは正直なところ少し面倒に思ったが、近衛として命じられた以上、ここで立っていること自体は特別なことではない。護衛として室内に控え、必要があれば扉を開き、必要がなければただ静かにそこにいる。それが近衛の仕事の一つだった。
扉は閉じられているが、室内の声は石壁を通してわずかに外へ漏れてくる。はっきり聞き取れるほどではないが、言葉の調子や間の取り方から、まだ議論が続いていることだけは分かった。
(……なんか難しいこと言ってるなぁ)
表情は動かさず、心の中だけでぼやく。司教たちが祈りの言葉について議論していることは途中から何となく分かっていたが、祈祷文がどういう形で、何をどこまで削ってよく、どこからが駄目なのか、そういう話になると正直なところ頭が追いつかない。祈るなら祈ればいいし、長かろうが短かろうが好きにすればいいんじゃないか、とつい思ってしまう。
もっとも、そういうことをここで口にするわけにはいかない。室内には宰相も殿下もいる。近衛としてやるべきことは、議論に混ざることではなく、ただ黙ってその場に立っていることだ。
それでも耳に入ってくる言葉の調子から、議論が簡単には終わらないことだけは分かった。司教の声が少し強くなり、それを別の声が静かに返し、そのあと殿下の低い声が続く。誰が何を言っているのかまでは分からないが、少なくとも全員が真剣に話しているらしい。
(……偉い人って大変だな)
そんなことを思いながら、視線を少しだけ下へ落とした。扉の前の石床には昼の光が細く差し込み、その明るい帯の中に自分の靴先が見えている。しばらくその光を眺めていたが、ふと別のことを思い出した。
南区の井戸のことだ。
今回の会議が開かれた理由は、祈りの言葉ではなく、そもそも井戸の水だったはずである。調査のために南区を回ったとき、井戸の水位が目に見えて下がっているのを俺は自分の目で見ていた。桶を下ろす縄がいつもより長く伸び、引き上げた桶の水もどこか濁っている。井戸の縁には人が並び、順番を待つあいだの空気は落ち着かなかった。
あの光景を見たとき、胸の奥に引っかかるものがあった。
それは王都での出来事というより、もっと昔の記憶に近い感覚だった。
俺の生まれた子爵領でも、子どものころに一度ひどい旱魃があった。雨が降らない日が続き、川は細くなり、井戸の水が少しずつ減っていった。最初のうちは誰も大したことだと思っていなかったが、やがて畑の土がひび割れ、家畜が弱り、井戸の周りには水を求める人の列ができた。
あのときの井戸の光景は、今でもはっきり覚えている。
桶を抱えて並ぶ人の背中。
底の見え始めた井戸。
乾いた畑の土の匂い。
誰かが「まだ大丈夫だ」と言い、別の誰かが「いや、もうまずい」と言い返した声。
(……あれは、嫌な年だった)
あの時、何が一番嫌だったのかを、昔の俺はうまく言えなかった。水が減ったことはもちろん嫌だった。畑が枯れるのも、家畜が痩せるのも嫌だった。だが今思えば、本当に嫌だったのは、水そのものより先に、人の顔つきが変わっていくことだったのかもしれない。
列に並ぶ背中が少しずつ固くなる。
桶を持つ手に力が入る。
冗談を言っていたはずの隣人が、ある日から急に笑わなくなる。
そうやって空気そのものが乾いていく。
会議の中で何が決まろうと、井戸の水が戻るわけではない。祈りの言葉が長いか短いかも、俺にはまだよく分からない。だが一つだけは分かる。井戸の水が減っている時、人は理屈どおりには動かない。焦り、群れ、疑い、時には怒る。そうやって空気そのものが変わっていく。
そこまで考えて、ようやく俺は少しだけ分かった。
さっきまで自分は「難しいことを言っている」と思っていたが、室内の連中が見ているのは、たぶんその先なのだ。祈りの形をめぐる議論に見えて、実際には、人がどう動くかを話している。井戸の水が減った時、どんな言葉が人を落ち着かせ、どんな言葉が逆に煽るのか。そこまで含めて話しているのだろう。
(……なら、難しいだけじゃ済まないか)
俺は扉の前に立ったまま、少しだけ息を吐いた。辺境では、こういう時に立派な理屈を持ってきてもだいたい役に立たない。逆に、短くて強い言葉が変なふうに広がると、それだけで空気が一気に傾く。南区の井戸の周りでも、いま同じことが起きかけているのかもしれない。
やがて内室の扉が開いた。先に出てきたのは宰相で、その後ろから司教たちが続く。最後に現れたのが殿下だった。
殿下は扉を通り過ぎるとき、ほんの一瞬だけ足を止めた。
俺は姿勢を崩さないままその横顔を見たが、殿下は何も言わない。ただわずかに視線をこちらへ向けただけで、すぐに回廊の奥へ歩いていった。
司教たちもその後を追い、やがて回廊は静かになる。
俺は再び扉の前に立ったまま、しばらくその場を動かなかった。
祈りの言葉が長いのか短いのかは、正直よく分からない。
けれども井戸の水が減っていることだけは分かる。
そして、水が減ると人の顔つきが変わることも分かる。
俺は回廊の窓の向こうに広がる王都の屋根を見た。あの屋根の下のどこかで、南区の井戸の周りに人が集まっているはずだった。
(……このまま雨が降らなかったら)
胸の奥で、子どものころの記憶がゆっくり形を結ぶ。
(あれよりヤバいことになる)
そう思った瞬間、会議の中で交わされていた言葉が、少しだけ違う重みを持ってこちらへ返ってきた。理屈は分からなくても、理屈の先にあるものなら分かる。井戸の縁で人が押し合いはじめる前の空気、誰かが声を荒げればそれに皆が引きずられていく速さ、そういうものは、辺境の旱魃でも王都の井戸でも変わらない。
俺は扉の脇に立ったまま、もう一度だけ窓の外を見た。
空は高く、晴れていた。だからこそ、余計に嫌な感じがした。
お読みいただきありがとうございます。
【次話予告】
理屈は後からついてくる。先に変わるのは空気だ。列の背中、桶を握る手、声の高さ。そのすべてが、まだ崩れていない崩壊を示している。会議で何が決まっても、水はすぐには戻らない。だが言葉は変わる。そして言葉が変われば、人の並び方が変わる。次に起きるのは、行動だ。
次回の投稿は明日21時頃の予定です。
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