↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
近衛の本領  ~王族から王国を護るお仕事です~(第三章連載開始)  作者: t.maki
第2章 第二王子フェリクス編
PR
169/209

第62話 北隅小聖堂(宰相視点)

ここは裁きの場ではない。だが、裁きよりも厳しい場になる。守るものが違う者同士が、同じ問題を前に立つ。




城の北端にある小聖堂は、王城の中にありながら、どこか城の外れに置き忘れられた遺物のような空気をまとっていた。中央大聖堂のような荘厳さも、王族の私的礼拝室のような整えられた気配もない。ただ古びた石壁と、高い位置に穿たれた細い窓と、踏み固められた石床があるだけである。王城の内部にあって、ここだけは時の流れが緩いように見える。人の足が絶えた場所には、沈黙が埃のように積もる。いまこの小聖堂は、まさにそういう場所だった。


それでも、ここには記憶が残っている。


第二王子フェリクスの異端審問が行われたのが、この北隅小聖堂だった。大勢の前で声高に糾弾するには狭く、しかし当人に逃げ場を与えぬには十分な広さである。信仰の言葉をもって人を囲み、言葉をもって裁くには都合のよい場所だった。裁きのために使われた場所は、その後しばらく、人を拒むような冷えた空気を帯びる。今日、儂がここを選んだのは偶然ではない。あの時と同じ場所で、あの時とは別の話をさせるためである。


祭壇の奥の内室に小机を置かせ、椅子も四脚並べさせたが、実際には誰も腰を下ろさなかった。座ってしまえば、この場は談話になる。今日必要なのは談話ではなく、互いに譲れぬものを持った者同士が、どこまで線を引けるかを確かめることだ。立っている方がよい。


内室には四人を入れた。南区司教マティアス、中央教区のアルベルト司教、第二王子フェリクス、そして儂である。扉の外ではなく、扉の内側の壁際には、アレン・アルフォードを立たせた。万一の時に動けるように、という名目はある。だが本当は、それだけではない。あの若者は言葉の中身までは口を挟まぬが、誰が何を守ろうとしているかを身体で嗅ぎ取る。会議の場に、ああいう秤のような男を一人置いておくのは、案外悪くない。


「まず確認しておこう」


儂がそう言った時、室内の空気がわずかに締まった。


「ここでの話は記録に残さぬ。列席者以外には漏らさぬ。これは審問ではなく、対処を考えるための会議である」


アルベルト司教は小さく顎を引き、マティアスは報告書の上に置いた指を止めた。フェリクスだけは、もともと動いていなかったように見える。


「王都南区の井戸の件だ」


机上に置いた報告書へ視線を落とす。字面そのものは簡潔である。井戸の水がわずかに澄んだ。人が集まり始めた。井戸端で祈りが続けられている。長く居続ける者が増え、衰弱して倒れる者が出ている。数行で済む。だが、その数行の背後には、乾いた町並みと、水を求めて空の桶を抱えた民の列がある。


「水の件は、教会の奇跡として広まる可能性がある。一方で、集まる人間が増えれば秩序の問題にもなる。いずれにせよ、放置はできぬ」


「奇跡と断ずるには早いでしょう」


アルベルト司教が最初に口を開いた。声音は低く、断定を避けながらも警戒は隠していない。


「もちろんだ」と儂は答える。「だからこそ、この段階で呼んだ」


マティアスが、そこで初めて顔を上げた。彼の眼差しには疲労があった。何日も水場と教区を往復し、群衆のざわめきを受け続けてきた者の目である。


「井戸の周りには、人が集まっています。祈っている者も、ただ見ている者もいる。希望があると思えば人は集まる。止めようとすれば、今度はなぜ止めるのかと問われる」


「そこで祈祷文を整えたか」


儂が問うと、マティアスは一拍置いた。


「はい」


「教会の正式な祈祷文をそのまま用いたわけではないな」


「そのままでは、あの場では口に乗りません」


それを聞いて、アルベルト司教の眉がかすかに動いた。


「つまり、短くしたということです」


「民が唱えられる形に整えた、ということです」


言い換えである。だが、その言い換えには立場がにじむ。長い祈りを削ったのか、現場に合わせて整えたのか。同じ行為でも、その言い方で守ろうとしているものが違う。


儂は二人の間に割って入らず、あえて沈黙を置いた。言葉は、急いで継ぎ足すより、一度止めた方がよく見える時がある。


フェリクスはその間、報告書の一行を見ていた。やがて視線を上げもせずに言った。


「澄んだのなら、誰かが世界に触れたのだろう」


その言い方に、マティアスがわずかに反応し、アルベルト司教は表情を変えなかった。儂は言葉の続きを待った。


「だが、触れれば世界も触れ返す」


それだけ言って、王子は再び黙った。


意味を問えば、長くなる。だが、あの男の言葉は、長く聞けば明らかになる類のものではない。むしろ、他の者に考えさせた時に効いてくる。


儂は窓の外を見た。晴れている。晴れすぎていると言ってよい。空は高く、雲は薄く、雨の気配はどこにもない。こういう空が続く時、人は希望に飢える。理屈ではなく、兆しに群がる。


「話を先へ進めよう」


視線を室内に戻す。


「問題は二つある。井戸の件をどう扱うか。そして、井戸の縁で用いられている祈りをどう扱うかだ。奇跡の認定をする場ではない。だが、言葉が人を集める以上、祈りの形は無視できぬ」


マティアスの顔に緊張が走り、アルベルト司教の目が細くなった。議論の中心がそこへ移ることを、二人とも理解したのだろう。


その時、扉脇に立つアレンが、ほんのわずかに重心を動かした。誰かが来たわけではない。だが、場の重さが変わった時、人は無意識に身体で受ける。あの若者は特にそうだ。


よい。ここから先で、本当の論点が出る。


祈りの長さを問うているように見えて、実際に問われるのは、誰が人の口に乗る言葉を決めるのか、ということだ。そして、その言葉がどこまで民を動かした時に、国家が口を差し挟むべきなのかということでもある。


信仰と言葉と統治は、切り分けられるようでいて、切り分けきれぬ。


その境を、今日は見極めねばならぬ。



祈りは守るべき形か、それとも届くべき言葉か。その対立は簡単には解けない。だがその前提自体が、すでに狭い。祈りとは何か。その問いに触れた瞬間、議論は別の段へ移る。ここで初めて、言葉そのものが問題になる。次に問われるのは、祈りの長さではない。祈りの所有だ

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。