第61話 王都の緊張(宰相視点)
街を動かしているのは命令ではない。噂だ。確認できぬまま広がるそれが、人を動かす。
王都の朝は静かに始まっていたが、その静けさにはどこか不自然な重さがあった。城の高い窓から見下ろす街では、いつものように煙が立ち、鐘が鳴り、人々が通りを行き交っている。見た目には昨日と変わらぬ光景であるにもかかわらず、その動きの底には言葉にならないざわめきが沈んでおり、そのざわめきが通りから通りへとゆっくり広がっていることを、窓辺に立って眺めているだけでも感じ取ることができた。
私は執務机の前に座り、届けられた報告書を一枚ずつ読み進めていた。
南区の井戸の列はさらに長くなり、粥の配給所では押し合いが起き、夜になると小さな喧嘩が増えている。路地の奥では水に言葉をかける若者たちが集まり、人々はその桶を囲んで順番を待っているという。水はわずかに澄み、飲んだ者の中には熱が軽くなったと語る者もいるらしいが、同時に奇妙な症状を訴える者も出ていると書かれており、そのどちらの記述も断定を避けるような書き方で並べられていた。
紙をめくるたび、同じ言葉が何度も現れる。
それは噂である。
今、王都を動かしているのは命令でも通達でもなく、街路の隅から隅へと静かに広がるこの噂であり、人々はそれを確かめることもできないまま、しかし確かに何かが起きていると感じながらその話を繰り返している。
私は紙を机の上に置き、椅子の背にもたれながら窓の外へ視線を向けた。雲はなく、雨の気配もない空が広がっている。晴れているはずなのに、その青さにはどこか乾いた硬さがあり、長く雨を見ていない空特有の張りつめた明るさが街の屋根の上に広がっていた。
やがて扉が叩かれ、許しを待つ気配が外に止まった。
「入れ」
入ってきたのは近衛だった。濃紺の制服の若い男が静かに礼をする。
アレン・アルフォードである。
彼は机の前で姿勢を正し、余計な前置きを置かずに言った。
「巡察の報告に参りました」
「聞こう」
私は椅子に座ったまま答えた。
アレンは見たことを順に述べ始めた。南区および市場周辺を巡察したこと、井戸の列は昨日より長くなっていること、桶の周囲には人が滞留していること、夜間には数箇所で小競り合いがあったが大きな騒動にはなっていないことを、彼は感情を交えずに一つずつ報告していく。
続いて彼は、井戸の水に言葉をかける者がいることを述べた。学徒と若い司祭が中心であり、人々は順番にその水を飲んでいるという。
私は尋ねた。
「変化は」
アレンはわずかに言葉を選びながら答えた。
「水は、少し澄んでいるように見えます」
そして、飲んだ者の中には熱が軽くなったと言う者もいるが、同時に体調を崩す者も出ており、症状は一定していないと付け加えた。
私は彼の顔を見た。
「街の空気は」
アレンは一瞬考えた。
「不安が強くなっています。祈祷よりも、水の噂の方が早く広がっています」
そこで彼は言葉を切った。
アレンは普段、推測を述べない。観察だけを並べる。
だが彼は少し間を置いてから、もう一度口を開いた。
「……南区の空気ですが」
「何だ」
「子爵領で旱魃があった年に似ています」
私は黙って彼を見ていた。
その言葉には説明が続かなかった。必要がないのだろう。飢えと乾きの記憶は、それを知る者にはそれだけで十分に伝わる。
「ご苦労だった」
アレンは礼をし、静かに部屋を出ていった。
扉が閉まったあと、私は机の上の紙束へ視線を戻した。南区の報告、教会の通達、そして今聞いた巡察の報告。それぞれの角度から見た街の姿は異なっているが、その底を流れているものは同じだった。
街の空気が変わっている。
私は紙束を指で揃えながら言った。
「これは宗教論争ではない」
秘書官が顔を上げた。
「国家の危機ですか」
「そうだ」
私は静かに答えた。
宗教の論争ならば時間が解決する。議論は長く続き、やがて疲れ、どちらかが勝つか、あるいは互いに飽きる。だが飢えは待たない。病も待たない。そして民衆は、空腹のあいだに結論を出してしまう。
もし民が改革派の水を選べば、教会の祈りは空虚に見える。もし教会がそれを禁じれば、民は教会を敵と見なす。どちらに転んでも街は割れる。
私は椅子から立ち上がり、窓辺へ歩いた。
王都は静かだった。だがその静けさは嵐の前の海のようでもある。遠くから見れば穏やかだが、近づけば水面の下で潮がぶつかり合っている。
教会、改革派、王子。
三つの言葉が頭の中で並んだ。それぞれが異なる理を持っている。祈りの理、変革の理、そしてあの王子の奇妙な理である。どれも完全には誤っていない。だからこそ厄介だった。
私は振り返り、秘書官に言った。
「召集する」
秘書官が息を止めた。
「誰を」
「教会から一人。改革派から一人。そして王子殿下」
彼は少し躊躇ってから尋ねた。
「理由は」
私は机の上の紙束を見た。
「災厄への対処方針を統一するため」
それが表向きの理由だった。
実際のところ、私が知りたいのは別のことである。この三つの理がどこまで世界を動かすのか、あるいはどこで壊れるのかを確かめる必要があった。
私は静かに言った。
「北隅小聖堂を使う」
城の北端にある小さな礼拝堂である。かつて異端審問が行われた場所であり、今ではほとんど使われていない。
秘書官は短く礼をした。
「承知しました」
扉が閉まると、部屋は再び静かになった。
私は机の上の紙を一枚取り上げた。南区の報告書である。そこにはこう書かれていた。
井戸の水が、少し澄んだと。
その一行を見ながら、私はゆっくりと紙を机に戻した。
問題は宗教ではない。飢えと不安が、どの理を選ぶかという問題だ。祈り、改革、そして王子。それぞれが正しく、それぞれが危うい。だからこそ、統一が必要になる。だが統一は、誰かを切り捨てることでもある。次に開かれるのは議論ではない。線引きの場だ。




