Le Vrai
Music: Masahiro Ohki - Night Haze
2028 年 10 月 22 日、真夜中。
ニューヨーク、Le Vrai ホテルチェーン最上階スイートルーム。
全面ガラス窓の向こうにはマンハッタンの無数のネオンが地平線まで敷き詰められていた。Persephone はその光の中に佇み、片手にグラスを持ち、表情は穏やかだが、視線はどこか遠くを漂っている。
彼女の身なりは薄く、エアコンの冷気がシルクの薄い寝間着を肌に張り付かせている。彼女にとって寒暖は些細なノイズに過ぎない。10 年前に Veronica ウイルスと完全融合して以来、五感の感知機構が根本から書き換わったからだ。
リビングのドアが開く。
Marcus Van Sciver が室内へ踏み込み、窓辺の Persephone を一瞥した後、エアコン操作パネルの異常に低い設定温度を見て眉を顰めた。
「ダーリン」
彼はハンガーへ歩み、彼女の濃い色のコートを取る。
「薄着の上、エアコンをこんな低温にして、この部屋を極寒の空間にするつもり?」
彼は彼女の背後へ回り、コートをそっと肩に掛ける。
Persephone は振り返らず、優雅にコートの襟元を指でつまみ、淡い口調で語る。
「少し距離感が近すぎるわ。私たちの関係がそこまで進んでいるとは思えないの、Marcus。まだ数ヶ月しかデートしていないのだから」
Marcus はゆっくりと彼女の肩を抱き、頭を下げて肩首に唇を寄せ、低い声を落とす。
「ハニー、Veronica ウイルスの後遺症がまた出ているの?私たち、半年も付き合っているだろう」
Persephone は微かに笑う。
「私の感覚では、半年なんて半月に過ぎないわ」
Marcus は彼女の首元に顔を埋め、息を吸い込む。
「君の香水は君自身と同じく、私を虜にする。この時間感覚の嘘を暴いてやりたくてたまらない」
Persephone は言葉を返さず、窓の外を眺めてため息をつく。
「ここ数年、世の中の変化が激しくて、時間があっという間に過ぎていくわ」
「元夫のことを言っているのか?」
「あの厄介者の話はしないで」
Persephone の口調は平静だが、断固とした拒絶が滲んでいる。
Marcus は一瞬黙り、再び窓外の煌めきを眺め、低く呟く。
「私は吸血鬼だ。長い年月の流れを見慣れているが、ここ数年の出来事だけは想像を超えている。Natalia も Beria も、忽然と姿を消した」
Persephone は身を翻し、手を伸ばして Marcus の頬を撫で、薄い笑みを浮かべる。
「二人とも前の主人から解放されて自由になったわ。昔と比べ、私を追いかける態度が大胆になったわね」
Marcus は笑う。
「もし Natalia が再び現れたら、自ら杭を心臓に突き立ててやる」
「口だけね」
Persephone は眉を少し上げる。
「だけど、確かに大胆になったものだわ」
二人は窓際から離れ、ソファへ腰を下ろす。Marcus が手近なオーディオ機器のスイッチを入れ、緩やかなジャズの旋律が室内全体に満ち広がる。それぞれウイスキーのグラスを手に取り、ゆっくりと啜る。
Persephone はグラスを回しながら、ふと話題を切り出す。
「最近、厄介な案件が次々と湧いてくる。聞いて驚くと思うけど、組織のお茶目な古株である Sayer が、本気で Naiyat 島を奪回して自国を再建しようとしている。最近は私の古い友人である年配の Esteban に接触し、軍備支援の交渉を進めているらしい」
Marcus は少し考え込む。
「前回彼に会った時は、その考えも中途半端で、ここまで強い意志はなかったはずだ」
「ここ数日で心境が変わったみたい」
Persephone は酒を一口飲む。
「推測だけど、美人のために国を欲しがっているのだと思う」
Marcus は視線を上げる。
「Elizabeth のことか?」
「そう。Sayer が彼女に執着しているのは一目瞭然よ」
Marcus は苦笑いで首を振る。
「ダーリン、君の情報網とルートは私の比ではないな」
「当然よ」
Persephone はグラスをテーブルに置く。
「それに聞いてくれ。Elizabeth が身内の姪の一人を連れて南米へ逃げ、わざわざ Sayer の末息子である Xie Linyuan を探しに行ったの」
Marcus はウイスキーを吹き出しそうになり、口元を拭って大きく笑う。
「Elizabeth は Sayer の顔に泥を塗るつもりか、わざわざ息子の元へ向かうなんて。家中が大炎上だな!」
「Sayer が女性のために国を捧げるなんて、他人に話しても誰も信じないだろう」
Persephone は体を横に向け、彼を真っ直ぐ見つめる。
「だけど私たちなら納得できる。昔、Hekal 共和国を統治していた時の彼の奔放な振る舞いを知っているから」
Marcus はウイスキーを一口飲む。
「では、Sayer は息子にどんな仕打ちをすると思う?」
「昔なら、このホテルに匿ってしばらく軟禁し、見習いとして鍛え上げる手段もあった」
Persephone は一瞬言葉を止める。
「だけど Xie Linyuan は現在、メキシコの地下壕で医師として働いている。Sayer は極度に自我が強い男だから、彼の出方は予測できない」
Marcus は顎を支える。
「きっと Naiyat 島の住民たちに八つ当たりするだろう」
Persephone は深くため息をつく。
「根源は昔の Atlantis Crimson Sun Realm の連中だ。我々とは同じ陣営ではないのに、無闇に Sayer を挑発して国土を奪おうとした。Heydrich と Sayer の間に、我々の知らない確執があるはずなのだが、なぜここまで泥沼になったのか未だに理解できない」
「Heydrich という吸血鬼はもともと狂っていた」
Marcus は手を振る。
「Sayer 自身も常人ではない。二人だけの間にどんな確執が生まれたか、誰にも分からない」
「その通り」
Persephone は頷く。
「Sayer 自身もその件に触れようとしない。何度会っても無口で、大統領時代の意気揚々とした姿とは別人だ。もしかしたら Heydrich と何らかの賭けをして敗北し、その屈辱を今も引きずっているのかもしれない」
「命に関わる賭けだったな」
Marcus は首を振る。
「自国を失った上、間接的に全世界がワームホールに十数年封鎖される事態を引き起こした。初期に襲った世界的大津波だけでも悲惨な有様だった」
「そうね」
Persephone はソファに身を預ける。
「幸い、今はすべて落ち着いたわ」
ジャズの曲調が切り替わり、より柔らかく緩やかな音色に変わる。二人は静かに酒を啜り、室内は心地よい暖かさに包まれていた。
Persephone のスマートフォンが点灯する。
画面を見下ろすと、Fish Mooney からクラブでトランプをしようと誘うメッセージが届いていた。
Marcus は身を乗り出して画面を覗き、眉を顰める。
「Fish Mooney は Luca Falcone との交際に時間を割けばいいのに、どうして私たちの二人きりの時間を邪魔するのか」
Persephone は顔を上げ、笑みを宿した瞳で彼を見る。
「そんなに離れたくないの?私の自由を束縛しようなんて」
「今夜だけに限って束縛したい」
Marcus は頭を下げ、鼻先で Persephone の首筋をそっと擦る。
「くすぐったい、やめて!」
Persephone は思わず声を上げ、体を横に避けようと彼を押す。
Marcus は笑いながら離れず、二人はソファの上でじゃれ合う。ジャズの音楽だけが、変わらぬ緩やかなリズムで室内に流れ続けていた。




