これこそが平和な日常、なのか? ③
その日の夕刻。女王陛下の執務室に呼び出されたネージュを待っていたのは、ファランディーヌの可憐な笑顔と恋愛小説の束だった。
まさか本当に恋愛小説を貸してくれることにも驚きだが、何よりも度肝を抜かれたのは、その小説たちが以前ファランディーヌと本屋で出会った時に買うのを諦めたものだったことだ。
確かあの時買えなかったのは十二冊で、きっちり同じ冊数が執務机の上に積み上げられている。その中には当然というべきか、ファランディーヌと同時に手に取ろうとした作品も含まれていた。
「全部持っている作品で良かったわ。返すのはいつでもいいわよ」
「女王陛下……恐れながら、どうして私が買おうとしていた作品をご存知なのですか?」
「あら、知らなかった? 私ね、一度見たものは忘れないの」
ネージュは女王陛下の御前であるにも関わらず、開いた口を塞ぐ事が出来なくなってしまった。
五歳の頃から玉座につき、凄まじいまでの才気で国を治めてきた天才。その事実を知ってはいたが、こうした才能を目の当たりにすると鳥肌が立つような心地がする。
驚きを隠せないまま無知を詫びたネージュに、ファランディーヌはそんなことよりと話を続ける。
「あなたに譲ってもらった小説、すっごく良かったわよ。感想聞かせてね」
「はい、ありがとうございます。とても楽しみです」
女王の気さくな笑みに、ネージュも自然と笑顔を返していた。
天才で気高く美しい方なのに奢ったところがない女王陛下。そして私的な空間で見せる年相応の笑みは、溌剌としていて魅力的だ。
「……あ、見てネージュ。雪よ、雪が降ってきたわ」
ファランディーヌの声はまるで恋愛小説について語る時のように弾んでいた。藤色の視線の先を追うと、窓の外では左右対称に整えられた広大な庭に白いものが彩りを添え始めている。
現在の暦は十二月の上旬。ついこの間まで秋だったというのにもう冬がやってきたのだ。積もるほどの勢いは無いものの、外に出れば身を切るような寒さが全身を包むことだろう。
「ネージュって、雪という意味よね。我がグレイル王家が古くに治めていた地方の言葉だわ」
「……そうなのですか? 初めて聞き及びました」
「そうよ。あなた、きっと雪の日に生まれたんだわ。色も白くてピッタリ。素敵な名前ね」
ファランディーヌの二心のない笑みに、ネージュはふいに切なさを覚えた。
ネージュは神によってこの世界に転生したのだから、実際に両親がいるのかも怪しいところだ。実際あの最低な院長が語ったところによれば、赤子のネージュは名前の書いた肌着を纏って孤児院の玄関に捨てられていたらしい。初夏の出来事なので雪の日に縁はない。
誰しもが持つはずの出自を持たないことは胸の内を重くさせる。この世界に息づく皆と違って、ネージュだけが紛い物だ。
「私、雪って大好きよ。静かで、優しくて、すごく落ち着くもの。……なんて大人ぶってみるけど、雪遊びってしたことないからやってみたいのよね」
子供じみたことを言う女王が描く笑みは無邪気で愛らしかった。騎士の得た小さな苦しみを察したわけでは無いだろうが、ネージュにとっては得難い救いとなる程に。
「積もることがあれば遊びましょう。雪だるまでも雪合戦でも、全力でお伴させて頂きます」
王宮を後にする頃にはすっかり雪は止んでいた。ネージュは徒歩で帰路を辿り、アドラス邸の門をくぐる。
出迎えてくれたのは長年仕える執事のブランドンだった。歳は六十代半ばと思しき彼は、灰色の髪をきっちり七三に整えているのだが、その整然とした見た目に反して朗らかな人だ。
手に持っていた鞄と外套を受け取られてしまい、ネージュは慣れない待遇に恐縮した。
「ブランドンさん、そんなにかしこまらないで下さい。私、ただの居候ですから」
「おや、何をおっしゃいます。シェリーお嬢様のご友人であるあなた様は、紛れもなく当家のお客様でございますれば」
含み笑いをするブランドンは、どうやらネージュの戸惑いを正確に察知しているらしい。
元平民の騎士が貴族としての心構えをなかなか持てないのはよくある話で、代々騎士を排出してきたアドラス家に長年仕える彼もまた、そうした騎士を数多く見てきたのだろう。
「私としては手伝いをしたいくらいなんです。雑用は余っていませんか? 一通りの家事はこなせるつもりですが」
「レニエ様はお優しい方でいらっしゃいます。大丈夫ですよ、人手は足りておりますので」
臙脂色の絨毯が敷かれた廊下を歩きながら、ブランドンがネージュの申し出を明るく笑い飛ばす。何度か繰り返されたこのやり取り、そろそろ聞き入れてもらえないことを察するべきなのだろうか。
着替えてから夕飯を頂くことになり、ネージュは厚手のセーターと細身のスラックスに着替えて食堂に向かう。女子寮にいた頃は部屋着で過ごしていたので、外出用のワンピースと訓練着以外持っていないことが悔やまれた。
二階の角に位置する客間から、一階の中央にある食堂へ。観音開きの扉を片側だけ押し開けると、今だに慣れない光景が広がっていた。
「ネージュ、お帰りなさい!」
「お疲れ様、レニエ副団長」
シンプルながら質のいい深緑色のワンピースを着たシェリーと、ダークグレーのセーターを身に纏ったカーティスは、食堂の長机の隅に対面で座していた。
どうやらネージュの帰還を待っていたようで、卓上にはコーヒーだけが置かれている。居候が家主の食事に待ったをかけているという状況に、すっかり青ざめたネージュは慌ててシェリーの隣に着席した。
「申し訳ありません、お待たせしたようで……!」
「気にしなくていい。そんなことより、女王陛下はどんなご用事だったんだい?」
心配そうに目を細めるカーティスに、ネージュは椅子に腰を落ち着けるなりピタリと固まった。この方にだけは恋愛小説を読むのが趣味だなんて知られたくない。
「次回のお忍びについてご指示を賜ったのですよ。ね、そうでしょうネージュ?」
ナイスフォロー、シェリー様。ネージュは心の中で親友に頭を下げつつ、努めて平然と微笑んだ。
「はい、行き先についてのご相談を伺ったのです」
「そうだったのか。女王陛下も君達には随分と心を許しているんだね」
カーティスはホッとしたようにため息をついた。彼はネージュの秘密を知ってからはとみに心配しているようで、少しの異変でもよく気付いて声をかけてくれる。
「女王陛下はお小さい頃から仕事ばかりだったからね。ご趣味と言えば読書くらいだけど、お読みになるのが早すぎて、安らいでいるようには見受けられなくて。だからご公務の延長とはいえ、息抜きの時間もお持ちになるようになったとは喜ばしいことだ」
カーティスが唯一忠誠を誓った相手。未だ歳若い女王陛下は、早期の即位によって少女時代の全てを失った。
恋愛小説を好むのは普通の暮らしへの憧れから来るものなのかもしれない。そう思うと胸が痛んで、ネージュはより一層励もうと改めて誓った。
給仕係がスープを運んでくる。寮の定食に慣らされた舌には美味しすぎる食事は、ネージュにとってはあまりにも勿体無くて恐縮するばかりだ。憧れの人と大好きな親友と共に過ごす時間は温かくて、すこしの恐怖すら抱くほど。
確かな絆に結ばれたこの親子が、もしこの時間を失うようなことがあったら。
そう考えると手が震えそうになって、ネージュは意識して二人との夕食を楽しむことだけを考えなければならなかった。




