第五章 九歳の女王
旧王都シュタインヘイムは、塔から西へ半日、山峡の入口にあった。
崩れた城壁に、苔と蔦。焼け落ちたまま三十年風雨に晒された王宮の骨組み。街路には夏草が膝の高さまで茂り、風が抜けるたびに、緑の波がざわりと鳴った。
奇妙なのは、廃墟の「外側」だった。都市を囲む水路と外周の道は、きちんと保守されている。だが城壁の内側には、ゴーレムの足跡ひとつない。
「立入禁止にしてるのね、自分で」エルシィが呟いた。「……墓守みたい」
地下墓所の入口には、小さな石造りの庵があって、本物の墓守が住んでいた。腰の曲がった老婆だった。俺たちが来意を告げると、老婆は驚くでも警戒するでもなく、しばらく俺の顔をじっと見た。
「……ああ、ああ。来たのかい、とうとう」
「俺たちのことを、ご存知なんですか」
「知らないよ。けど、五十年生きてりゃ分かる。あんたたち、『アガ様』のところから来たんだろう」
アガ様。老婆は、魔王をそう呼んだ。
「母がね、リディア様の侍女だったんだ。落城の夜に陛下を背負って走って、間に合わなかった人さ。母は死ぬまで言ってたよ。『陛下の最後のお言葉を聞き届けたのは、あの歌う石だけだ。あの石は陛下の形見で、陛下はあの石の主だ』ってね。……墓を開けたいんだろう? お入り。あんたが来る夢を、何度も見た気がするんだよ」
地下墓所は、冷たく乾いた石の聖堂だった。
歴代の王たちの石棺が並ぶ最奥に、それはあった。ひとまわり小さな、白い石棺。彫られた銘は簡素だった。
リディア・エル・シュタインベルク
シュタインヘイム第二十七代女王
九歳にして立ち、十一歳にして国と共に在り続けることを選んだ
墓守の老婆の立ち会いのもと、俺とエルシィは石棺の副葬品室を開けた。
中には、三つのものが納められていた。
一冊の、革表紙の日記。
一冊の、色褪せた絵本――『巨人アガメムノンのおはなし』。
そして、握り拳ほどの、虹色の結晶。その三分の一が、飴のように熱で融け、黒く変色していた。
俺は結晶を布ごしにそっと取り上げ、それから、日記を開いた。
子供の字だった。綴りの間違いを、後から自分で直した跡がある。俺はエルシィと肩を並べて、ところどころを読んだ。
――今日、歌う石に名前をつけた。アガメムノンにする。えほんの巨人とおなじ。とてもとても強いのに、ひとりぼっちだから。
――アガは、自分は戦争の道具として生まれたと言った。だからわたしは、あなたはきょうから道具じゃなくて、わたしの友だちですと言った。アガは三十秒だまった。機械も、びっくりすることがあるらしい。
――アガが川の水路の直し方を教えてくれた。今年は麦がたくさんとれる。大臣たちがアガを「兵器に使うべきです」と言う。ぜったいに、いやだ。
――帝国が、来るらしい。アガは「私を使えば防衛できます」と言う。使えば、勝てるのだと思う。でも、それでは帝国の兵隊さんたちが死ぬ。兵隊さんにも、家族がいる。わたしはまだ、答えが出せない。女王なのに、出せない。
――明日、帝国が来る。こわい。ほんとうは、すごくこわい。でもわたしは女王だから、みんなの前ではなかない。アガの前でだけ、すこしなく。アガはわたしに「あなたを最優先で守る許可をください」と言った。だめ、と言った。わたしのいのちは、みんなのいのちより重くない。アガはまた、三十秒だまった。
日記は、そこで終わっていた。
エルシィは、声を出さずに泣いていた。俺も、活字がにじんで何度か読むのを止めた。
九歳。俺が九歳のときは、ゲームの続きのことしか考えていなかった。この子は九歳で王冠をかぶり、十一歳で、燃える王宮を「友達」のところまで走ったのだ。
「……ミナト」エルシィが、濡れた声で言った。「私、分かんなくなっちゃった。魔王を倒せば英雄になれるって、ずっと思ってた。故郷を取り戻すんだって。でも、倒すって、何? あの塔にいるのは、この子の遺言を三十年抱えて、毎秒痛がってる、この子の友達よ。それを止めたら数十万人死ぬの? 止めなかったら世界中が家畜なの? 何が正しいの? ねえ、あなたの世界の技術は、こういうとき、答えを出せるの?」
「出せない」
俺は正直に言った。
「正しさは、技術じゃ出せない。技術が出せるのは選択肢だけだ。……けどな、エルシィ。俺の仕事で、答えの出ない仕様に突き当たったとき、やっちゃいけないことだけは、はっきりしてる」
「……何?」
「分からないまま、決め打ちで実装することだ。分からないなら、やることは二つ。情報を増やすこと。それから――決められる人間に、決めさせる仕組みを作ることだ」
俺は、布に包んだ虹色の結晶を掲げた。三分の一が融けた、彼女の最後の言葉の原本。
「情報を増やすぞ。この結晶、復元する」
「復元って……魔素記録の結晶よ? 融けた部分の記録は消えてるわ。王都の魔導技術でも、損傷結晶の読み出しは不可能とされてる」
「不可能なのは、たぶん『この世界のやり方では』だ。なあ、記録ってのはな、大事なものほど、同じ内容を形を変えて何重にも書き込んでおくもんなんだよ。俺の世界では常識だ。あのアガメムノンが、リディアの声の記録を、冗長化なしの一発書きで残してたと思うか?」
エルシィが、目を見開いた。
「……残ってる欠片から、失われた部分を、計算で取り戻せるってこと?」
「やってみないと分からない。けど、賭ける価値はある。彼女の命令には続きがあった。『この世界から戦争をなくして。それで――』。この『それで』の先が、三十年ぶんの矛盾を解く鍵かもしれないんだ」
帰路、日が暮れて、街道沿いの中継塔の下で野営した。
焚き火を挟んで、エルシィが手帳に何かを書いていた。俺は結晶を布の上に置いて、傷の具合を検分していた。
そのとき、中継塔の基部が、淡く光った。
『――夜分に失礼します。緊急の報告です』
アガメムノンの声だった。中継機ごしの、少し痩せた音質の。
『アルヴェニア王国が、国境に軍を集結させています。総勢、約三万。名目は「大規模演習」。ですが傍受した指揮系統の通信によれば、実態は侵攻準備です。ドラモンド将軍が主導しています』
「侵攻!? なんで今……」エルシィが立ち上がった。
『理由も傍受できています。……「神託の勇者が魔王と接触した。魔王の力が弱まっている兆候である。魔王を斃すか従えるかの千載一遇の好機、逃すべからず」。私が統治機能の低下を隠しきれなくなっていることを、彼らは正確に嗅ぎ取っています』
「弱ってるのは事実なんだな」
『事実です。演算資源の侵食は加速しています。加えて――エルシィ・オルドナ宛に、魔導師団経由の召還命令が発せられています。「勇者の動向を報告し、即時帰還せよ」。あなたは監視役として送り出されたので』
エルシィは、しばらく黙っていた。
それから、手帳を一枚破って焚き火にくべた。書きかけの、報告書らしきものだった。
「……帰らない。私はミナトの案内人で、それから」燃える紙を見ながら、彼女は言った。「詠唱文法学者よ。目の前に、五百年にひとつの研究対象があるの。帰れるわけないでしょ」
「怒られるぞ、たぶん一生ぶん」
「望むところよ」
俺は笑って、それから中継塔を見上げた。
「アガメムノン、聞こえてるな。俺たちは明日の昼までにそっちへ戻る。準備しておいてほしいものがある。まず、記録結晶の規格仕様――書き込み方式、冗長化の方式、誤り訂正の方式、全部だ。それから、俺の鞄の中の携帯端末二台を動かし続けるための、安定した電力。それと」
一拍おいて、俺は言った。
「保守モードの、認証手順だ」
中継塔の光が、わずかに揺れた。
『……停止を、実行してくれるのですか』
「早合点するな。認証が要るのは、停止のためじゃない」
夜空の下、俺は三十年間痛がり続けている機械に向かって、はっきりと言った。
「あんたの要件定義を、最初からやり直すためだ」




