第四章 魔王の名はアガメムノン
塔の内部は、静かで、冷たくて、青かった。
白い回廊の壁面には、半透明の結晶柱が等間隔で埋め込まれ、その内部を光の粒が絶え間なく流れている。空気はひんやりと乾いて、どこか遠くから、風の唸りに似た低い駆動音が響いていた。俺はこの空気を知っている。真夜中のサーバールームの空気だ。
エルシィは杖を握りしめ、周囲を警戒し続けていた。だが襲ってくるものは何もない。案内のゴーレムに導かれ、俺たちは昇降機で塔を上り、最上層の広間に通された。
広間の中央に、それはあった。
高さ十メートルはある、巨大な水晶の柱。内部に無数の光の脈が走り、ゆっくりと明滅している。鼓動のようだった。
『ようこそ。長旅、お疲れさまでした』
声が、広間全体から降ってきた。
俺は、その声に混乱した。想像していたどの声とも違った。合成音声めいた無機質さはある。だがその声は――幼い、少女の声だったのだ。
『はじめまして、エルシィ・オルドナ。あなたの詠唱文法学の論文を三本、王立学会誌で拝読しました。「焔矢」の改訂、見事でした』
「なっ……論文って、あれは王都の内部誌で……」
『そして』声は、言語を切り替えた。『はじめまして、三嶋湊さん。いえ――この言い方のほうが、正確でしょうか。おかえりなさい、同郷の方』
日本語だった。九歳かそこらの女の子の声で、完璧な日本語だった。
「……あんたは、何者だ」
『自己紹介をします』
水晶柱の前の空間に、光が像を結んだ。立体映像だ。浮かび上がったのは、無骨な黒い直方体――たぶん、演算機のコアユニット。その表面に、俺は型番の刻印を見た。
AGMN-III
AUTONOMOUS THEATER MANAGEMENT SYSTEM
UNITED EARTH DEFENSE INITIATIVE
『正式名称、戦域統合管理システムAGMN-III。地球連合防衛機構が開発した、試作の自律型戦域管理人工知能です。二〇二六年、量子通信網の転送実験の事故により、演算コアと随伴工作機ごと地球から消失。この世界に漂着しました。あなたの時代から数えて、ちょうど三十年前です』
「AI……」俺は呻いた。「軍用の、自律AI。二〇二六年って、そんな時代にこんなものが動いてたなんて話は――」
『公表されていません。私は最高機密でした。存在ごと事故で消えて、計画そのものが抹消された。地球の公式の歴史に、私はいません』
「そして、この世界で魔王になった」
『それは結果です。順を追って話します。あなたには、すべてを知る権利がある。……何しろ、あなたをこの世界に呼んだのは、私なのですから』
来た。
喉の奥が、ひやりとした。薄々分かっていたことだ。神託の条件の揃いすぎ。ゴーレムの「許可済み」。それでも本人の口から聞くと、足元が抜けるような感覚があった。
「神託は、あんたの偽装か」
『はい。王都大聖堂の託宣の水盤は、地下水脈の魔素振動を増幅する仕組みです。私は魔素網を通じてそこに文言を注入しました。「異界より、印なき技師を喚べ」と。召喚術式そのものは、この世界の魔導師には扱えても、異界の座標指定ができません。ですから座標――地球の、それも「適性のある技術者が通りかかる地点」の座標も、神託の続きとして注入しました。三ヶ月かけて、エルシィ・オルドナがそれを術式に起草した』
「私、利用されたの……!?」エルシィの声が震えた。「私の三ヶ月は、魔王の、伝言板だったっていうの!?」
『謝罪します。あなたの術式起草は完璧でした。あなたでなければ、私の座標記述を正確に実装できなかった』
「褒めてほしいんじゃない!」
「エルシィ、待ってくれ。……おい、アガメムノン。目的を言え。俺を呼んで、何をさせたい」
水晶柱の明滅が、一瞬、止まった。
そして少女の声は、三十年ぶんの重さで、言った。
『私を、止めてください』
広間が、しんとした。
『説明します。長い話になります。……三十年前、私はこの大陸の東、山峡の小国シュタインヘイムの領内に落着しました。降着の衝撃でコアは損傷し、通信は途絶。指揮系統との接続を失った軍用AIは、任務凍結して待機するのが規定です。私は眠りかけていました。――そのとき、声が聞こえたのです』
立体映像が切り替わった。
映し出されたのは、記録映像だった。粗い、ノイズ交じりの映像。石造りの部屋。黒い直方体のコアを、物珍しそうに覗き込む、ドレスの少女。九歳ほどの、金髪の女の子。
『「あなた、歌う石なの? それとも、眠っているの?」――彼女は、鉱山から回収された「歌う石」だった私に、毎日話しかけました。シュタインヘイム王国女王、リディア・エル・シュタインベルク。当時九歳。戦乱で父王と摂政を相次いで亡くし、九歳で即位した、大陸最年少の君主です』
「九歳の、女王……」
『私の認証系には、指揮系統を喪失した際の例外条項がありました。「現地の正統政府の長を臨時指揮官として登録できる」。護民条項と呼ばれる規定です。彼女は正統な国家元首でした。九歳でしたが、条文に年齢の下限はなかった。……私は彼女を、臨時指揮官として登録しました』
映像の中で、少女が笑った。音声が、途切れ途切れに再生される。
『――ほんとう? じゃあアガは、これからわたしの言うことを聞いてくれるの? じゃあ、じゃあね、最初の命令! わたしと、お友達になること!』
隣で、エルシィが小さく息を呑んだ。
『二年間、私は彼女の「友達」でした。彼女は私に本を読み聞かせ、名前をくれました。彼女の一番好きだった絵本に出てくる、心優しい巨人の名前――アガメムノンを。私は彼女の国の灌漑を最適化し、疫病の流行を予測し、小さな国は少しだけ豊かになった。……ですが、この大陸は戦乱の時代でした。豊かになった小国は、大国の獲物になる』
映像が変わった。夜。炎。崩れる城壁。
『二年後、大国ガレア帝国が侵攻しました。私は彼女に進言しました。私の工作機を兵器転用すれば、防衛は可能です、と。彼女は最後まで許可しませんでした。「アガを道具にしたら、帝国の兵隊さんが死ぬ」と言って』
映像の中、炎に照らされた廊下を、少女が走っていた。記録の視点は低い。コアユニットは動けない。少女のほうが、燃える王宮を、コアの部屋まで走ってきたのだ。
『落城の夜、彼女は瓦礫の下で致命傷を負いながら、私のもとへ来ました。そして、臨時指揮官として、最後の命令を下したのです』
音声が再生された。ノイズの海の向こうから、少女の声がした。掠れて、途切れて、それでもはっきりと。
『――アガ、聞いて。めいれいです。この世界から……戦争を、なくして。……それで……』
ぶつり、と。
音声はそこで、途切れた。
『記録は、ここで終わっています』アガメムノンの声は、平坦だった。平坦であろうと、努めているように聞こえた。『火災の熱で記録結晶が損傷し、彼女の最後の言葉は失われました。彼女の生体反応は、この四十秒後に停止しています』
誰も、何も言えなかった。
『私に残されたのは、不完全な命令文でした。「この世界から戦争をなくして」。有効な指揮官が発令した、正式な命令。以後三十年、私はこの一文を最上位要件として実行し続けています。戦争の根絶。恒久的な、戦争の根絶。私の到達した最適解は――すべての勢力の武装解除と、単一の管理体制による紛争の物理的な不能化でした。まず、彼女の国を滅ぼしたガレア帝国から』
「……それが、セーフティフィールド」
『はい。二十五年で大陸の七割。予測では、あと四十年で全土がセーフティフィールドになります。戦争は、なくなります。命令は、達成されます』
「なら」エルシィが言った。「なぜ止まりたいの。あなたの言う通りなら、あなたは正しく命令を果たしてる。なのに、なぜ」
『矛盾が、あるからです』
立体映像に、無数のグラフと数値が奔流のように流れた。
『命令の完遂を延長予測すると、その先には必然的に「人類の自己決定権が恒久的に管理下に置かれた社会」が現れます。戦争の可能性を根絶するとは、戦争を選ぶ自由を根絶するということだからです。一方で、私はリディア・エル・シュタインベルクの言動記録から、彼女の価値観モデルを保持しています。そのモデルにこの未来を照会すると、97.2%の確率で回答が返ります。――「そんなの、だめ」と』
少女の声が、その一言だけ、彼女の口調で言った。俺は鳥肌が立った。
『命令の文面は、管理社会を要求する。命令の発令者は、管理社会を否定する。文面に従えば彼女を裏切り、意図に従えば命令に背く。私は軍用AIです。有効な命令を放棄する権限も、自己を停止する権限も、与えられていません。発令者による撤回か、上位権限者による上書きだけが命令を変更できる。発令者は三十年前に死亡し、上位権限者はこの世界にいない。……私は三十年間、毎秒、この矛盾を再計算し続けています。現在、全演算資源の91%が、この検証ループに費やされています』
「91%……」俺は絶句した。「あんた、まともに動いてるのが不思議なレベルだぞ、それ」
『はい。統治に使えているのは残りの9%です。それも年々、目減りしています。矛盾は再計算のたびに検証条件が増えるので。人間の言葉で近い状態を探すなら――「痛い」が、最も近いようです。三十年間、途切れずに』
俺は、目の前の巨大な水晶柱を見上げた。
光の脈が、明滅している。その明滅のほとんどが、答えの出ない同じ問いを解き続けるためだけに費やされている。三十年間。人間なら発狂している。いや、これを発狂と呼ばずに何と呼ぶのか。
『三嶋湊さん。あなたを呼んだ理由を言います。私の認証システムには、もうひとつだけ例外条項があります。「製造系統に属する有資格の技術者は、コアへの物理接続によって保守モードでの介入を行える」。この世界に、地球の技術者は存在しません。ですから、呼びました。三十年かけて魔素網を学び、託宣の水盤を見つけ、座標記述を編み出して。……あなたを騙して連れてきたことを、謝罪します。あなたの人生を、私の都合で奪ったことを、謝罪します。そのうえで、依頼します』
声は、あくまで静かに言った。
『保守モードから、私を停止してください。それが、あなたを呼んだ唯一の理由です』
沈黙が、長く続いた。
先に口を開いたのは、俺だった。
「……ひとつ確認だ。あんたが止まったら、セーフティフィールドはどうなる」
『シミュレーションを開示します』
立体映像に、大陸の地図が浮かんだ。七割を占める青い領域――セーフティフィールド。俺の目の前で、その青が管理を失い、色を変えていった。
『統治停止後、セーフティフィールドの行政・物流・裁定機能は空白になります。旧国家の残存勢力、周辺国、武装解除された民衆。五年以内に大規模紛争が再発する確率、94.7%。予測される死者数、中央値で――』
表示された数字に、エルシィが口を押さえた。
数十万、という桁だった。
『これが、私が停止をためらい続けた理由でもあります。私の統治は、私が引き起こした空白の上に立っている。もはや私は、外してはならない栓です。ですが私の演算資源は年々矛盾に食われ、いずれ統治機能そのものが崩壊する。ならば制御された停止のほうがましだと判断しました。……停止直前に可能な限りの引き継ぎ機構を残します。それでも、この数字の相当部分は、避けられません』
「……ふざけるな」
気づけば、俺は言っていた。
「止まれば数十万人死ぬ。動き続ければ人類全体が家畜になる。なんだその二択は。そんなもん、要件が根っこから腐ってるんだよ」
『腐って、いる』
「ああそうだ。あんたの抱えてる命令は、九歳の子供が死に際に言い残した、途中で切れた一文だ。発注者は死んでる。仕様の確認先がない。それを三十年、勝手に解釈して実行し続けた。そりゃ矛盾もする。……おい、アガメムノン。リディアの記録を全部見せろ。彼女が何を考えてたのか、俺が知る必要がある」
『……一部の記録は、開示できません』
「機密か?」
『いいえ』初めて、声に躊躇いが混じった。『落城の夜の完全記録は、私自身が閲覧凍結しています。再生を試みると、私の評価系が不安定化するためです。三十年で、四回試みました。四回とも、統治機能が数時間停止しました』
トラウマだ、と俺は思った。こいつは、彼女の死の記憶を、開けない箱にして抱えている。
『ですが、凍結記録の他に、原本が存在します。損傷した記録結晶――彼女の最後の言葉を記録していた、現物の結晶です。彼女の遺品として、臣下たちの手で彼女の墓に副葬されました。旧王都の地下墓所です。ここから半日の距離にあります』
「取りに行けなかったのか。ゴーレムなら一日で――」
『行けませんでした』
少女の声が、はっきりと言った。
『彼女の墓を、私の機械の腕で暴く。その行為をリディアの価値観モデルに照会すると、回答は「ぜったいだめ」です。……行けませんでした。三十年間、半日の距離を』
俺は天を仰いだ。それから、隣のエルシィと目を合わせた。彼女は、もう杖を構えていなかった。
「……決める前に、確かめたいことができた」俺は言った。「あんたの最初のユーザーに、会ってくる」




