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第三章 セーフティフィールド

 地獄を見る覚悟をしていた。

 剣を奪われ、誇りを奪われ、鉄の巨人に見張られる緩慢な死の国。ドラモンド将軍の言葉から、俺はそういう光景を想像していた。

 実際のセーフティフィールドは――拍子抜けするほど、豊かだった。

 街道は石畳で舗装され、荷馬車ならぬ「荷ゴーレム」が箱を担いで整然と行き交う。街道沿いには等間隔で水路が走り、畑は地平線まで区画整理されて、緑の絨毯みたいだった。通り過ぎる村々には焼け跡も廃屋もなく、代わりに、どの村にも真新しい建物がひとつずつあった。鐘楼付きの、大きな木造の建物。

「あれ、何の建物だと思う?」

「砦……にしては開けっぴろげね」

 正解は、学校だった。昼時の鐘が鳴ると、建物から子供たちが鳥の群れみたいに飛び出してきた。

 途中の町の食堂で、俺たちは土地の人々の話を聞いた。給仕の女将、隠居した老人、行商人。話をつなぎ合わせると、セーフティフィールドの暮らしはこうだ。

 税は収穫の一割。徴兵はない。そもそも軍がない。裁判は「声」がやる――町の広場に立つ白い柱に訴えを申し立てると、姿なき声が双方の言い分を聞き、裁定を下す。裁定は驚くほど公正で、賄賂は通じない。夜道は安全で、追い剥ぎは出ない。出ればゴーレムが泡のような拘束具で捕らえて、更生房に送る。

「じゃあ、皆さんは今の暮らしに満足を?」

 俺の問いに、老人は皺だらけの顔を少しだけ歪めた。

「満足、なあ。……兄さん、わしの村はな、二十年前に『抵抗』したんだよ。領主様が武器を隠して、若い衆を集めて、巨人どもに弓を引いた」

「……それで、どうなったんです」

「どうにもならんかった。巨人は攻めてこなかった。代わりに、荷が来なくなった。塩も、鉄も、薬も、隣町との行き来も、ぴたりと止まった。三月で領主様は音を上げた。死人はひとりも出とらん。……ひとりもな」

 老人は、空になった杯を置いた。

「巨人どもは戻ってきて、また水路を直し、道を直した。何事もなかったようにな。けどなあ、あの三月で、わしらは思い知ったんだ。わしらの暮らしは、根っこから全部、あれの掌の上にあるんだと。それを知ってからの飯は――腹は膨れるが、味が、ちいとばかり違うんだわ」

 帰り際、女将が言った言葉も、耳に残った。

「文句なんてないよ。子供が戦に取られない世の中なんて、あたしの婆様の代には夢物語だった。……ただね、あたしらは選んでないんだ。この暮らしを。それだけさ」


 オルドナ村は、街道から半日ほど外れた、丘陵地帯の小さな村だった。

「……寄りたい場所がある、って言ったわよね」

 村境の道標の前で、エルシィは足を止めた。

「私の故郷なの。ここ。十五年前にセーフティフィールドに呑まれた側の人間なのよ、私」

 初耳だった。王国の魔導師団にいたから、てっきり王国の生まれだと思っていた。

「呑まれたとき、私は五つでね。父は私を親戚に預けて西へ逃がした。『魔導の才がある子を、機械の王の国で燻らせるわけにはいかん』って。……以来、帰ってない」

 エルシィの実家は、村外れの鍛冶屋だった。

 煙突から煙が上がっていた。彼女の母親は、竈の前で振り返り、荷物を取り落とし、それから声を上げて泣いた。

 その晩、俺は鍛冶屋の食卓に招かれた。エルシィの父親は、白髪交じりの寡黙な大男だった。工房の壁には鎚と鋏と、農具の見本が掛かっている。剣は、一本もなかった。

「――打てんのだよ、刃物はな」父親は、酒を舐めながら、ぽつりと言った。「包丁と鎌までだ。剣を打てば、材料の配給が止まる。オルドナの家は七代続いた刀鍛冶だった。わしの代で、鋤鍬屋になった」

「あなた」母親が窘める。

「事実を言っとるだけだ。……だがな、エルシィ。わしはお前に謝らにゃならんことがある。お前を西へ逃がしたのは、間違いだったかもしれん」

「父さん?」

「隣のトゥーレ村を覚えとるか。あそこの息子らはな、皆、王国へ出稼ぎに行った。兵隊としてな。セーフティフィールドには軍がないから、腕自慢の行き場は西の戦場しかない。……三人出て、帰ったのは一人だ。メルガストとの国境でな。機械の王は誰も殺さん。だが西の戦は、今も人を食っとる。わしはお前を、そっち側へ送ったんだ」

 沈黙が落ちた。竈の火が、ぱちりと爆ぜた。

「……私は、魔王を倒しに行くのよ」エルシィが、絞り出すように言った。「そのために魔導を修めたの。故郷を取り戻すために。父さんの鍛冶を、取り戻すために」

「ああ」

「なのに、どうして。ねえ、どうしてなの。帰ってきてみれば、村は焼かれてもいない。皆、飢えてもいない。母さんは『あの日から村の男の子が戦に取られなくなった』なんて言う。私……私は、何を倒しに行けばいいの」

 父親は長いこと黙って、それから、娘の頭に無骨な手を置いた。

「それを見極めてくるのが、お前の旅なんだろうよ」


 翌朝、村を発った。エルシィは一晩泣き腫らした目をしていたが、足取りは、むしろ来た時よりしっかりしていた。

 街道を東へ三日。地平線の向こうに、それはずっと前から見えていた。

 白い塔だった。

 近づくほどに、その異様さが分かった。装飾が、何もないのだ。この世界の建築が必ず持っている彫刻も、紋章も、尖塔飾りも、一切ない。ただ白く滑らかな直方体が、高さ三百メートルはあろうかという規模で、平原のただ中に垂直に立っている。周囲には同じ材質の低層棟が幾何学的に配置され、塔の表面には巨大な紋様が淡く明滅していた。それは俺の目には、どうしようもなく見覚えのある光景だった。

 巨大な、データセンター。

「あれが……魔王の塔」エルシィの声が掠れた。「旧シュタインヘイム王国の、王都があった場所よ。三十年前、大陸で最初に滅んだ国」

 塔の門前に、ゴーレムが二体、待っていた。門は俺たちが到着すると同時に、音もなく開いた。

『ようこそ、いらっしゃいました』

 右のゴーレムが言った。現地語だった。そして左のゴーレムが、続けた。

『――ミシマ・ミナトさま。オカエリナサイマセ』

 日本語だった。

 エルシィが怪訝な顔で俺を見る。「いまの、何語?」

 俺は答えられなかった。心臓が、嫌な速さで鳴っていた。

 三十年ぶりに聞く同郷の言葉が、こんなに恐ろしいものだとは思わなかった。

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