第二章 魔法はコードでできている
王都を発って三日目の朝、俺は生まれて初めて、魔法というものをまともに見た。
街道沿いの野営地。朝食の火を熾すために、エルシィが枯れ枝の山に杖を向けて、歌うように唱えた。
「――火精に請う。薪を選び、風を避け、掌より出でて三歩の内に留まれ。焔よ」
杖の先に赤い光の紋様が浮かび、ぽん、と小気味よい音がして、枯れ枝が燃え上がった。それだけと言えばそれだけの光景に、俺は荷物を下ろすのも忘れて見入った。
「……そんなに珍しい? ただの着火の術式よ」
「珍しいというか。……なあ、いま杖の先に浮かんだ模様、あれは何?」
「術式紋。詠唱を唱えると、対応する紋が展開されて、魔素が流れて発動する。子供でも知ってるわよ」
「その詠唱と紋の対応関係は、誰が決めたんだ?」
「誰って……古代の魔導師たちが、五百年かけて少しずつ。詠唱文法学っていうの。まあ、私の専門なんだけど」エルシィはそこで、ちょっと自慢げに胸を張り、それからすぐ肩を落とした。「王都では『儲からない学問』の代名詞ね。強い術をひとつ覚えるほうが、文法を十年研究するより出世できるから」
俺は焚き火の前にしゃがんで、質問を続けた。詠唱の一句一句が何に対応するのか。「火精に請う」は何を指定しているのか。「三歩の内に留まれ」を「五歩」に変えたらどうなるのか。
エルシィは呆れながらも、几帳面に答えてくれた。彼女の説明を頭の中で整理していくうちに、俺の中でひとつの確信が育っていった。
「火精に請う」は、使う資源の宣言。「薪を選び、風を避け」は対象の指定と実行条件。「三歩の内に留まれ」は範囲の引数。「焔よ」は実行命令。
つまり。
「――これ、プログラムだ」
「ぷろ、ぐらむ?」
「俺の世界の技術だよ。機械に仕事をさせるための、手順書のことだ。決まった文法で、資源と、条件と、引数と、命令を書く。書いた通りにしか動かない。書き間違えれば、間違えた通りに動く」
「……それ、まるっきり術式のことじゃない」
「だろ? じゃあ次の質問だ。あんたたちの詠唱には、無駄はないのか?」
「無駄?」
「たとえばさっきの着火。『風を避け』って句があったよな。野営の焚き火なら要るだろうけど、屋内の竈に火を入れるときも、あんたたちは同じ詠唱を使うんじゃないのか」
エルシィが、虚を突かれた顔をした。
「……使う、わね。定型句だから」
「屋内に避けるべき風はあるか?」
「ない、けど。でも定型句を削るなんて、そんなこと……」彼女は言いかけて、止まった。研究者の目になっていた。「――待って。理論上は、詠唱句が減れば展開される紋が単純になる。紋が単純になれば、魔素の消費が減って、発動も速くなる。でも定型句は先人の知恵で、削れば暴発の危険が……いえ、暴発を防いでいるのは安全句であって、状況句じゃない……」
彼女はぶつぶつ言いながら、懐から分厚い手帳を出して何かを書き付け始めた。朝食が完全に後回しになっていた。
その日の夕方、街道脇の川原で、エルシィは実験をした。
彼女の得意な攻撃術式――火の矢を放つ「焔矢」。正規の詠唱は四句、発動まで三秒。それを俺と二人で一句ずつ精査し、川原という開けた状況では冗長な二句を削った改訂版は――発動まで、一・五秒。
放たれた火の矢が、対岸の岩を正確に撃ち抜いた。威力は変わらず、速度は倍。
「…………」
エルシィは、煙を上げる岩と、自分の杖とを、何度も見比べた。
「五百年の定型文を、来て三日の異界人が半分にした……」
「半分にしたのはあんただ。俺は魔法を使えない。どの句が安全に削れるかを判断したのは、あんたの五百年ぶんの文法知識だよ。俺がやったのは、削れるはずだって疑うことだけ」
「……ミナト。あなたの世界では、皆そういうふうに考えるの?」
「そういうふうに考える仕事があるんだ。動いているものを疑って、測って、直す。……なあ、これって要するに、あんたたちは魔素っていう超高性能な実行環境の上で、五百年かけて手書きの命令文を積み上げてきたってことだよな。だとしたら」
だとしたら、だ。
俺はずっと引っかかっていたことを、口に出した。
「――三十年前に突然現れて、この世界の誰とも違う道具立てで大陸の七割を呑んだ『魔王』ってのは、いったい何者なんだろうな」
国境の町ヴェルデンは、難民で膨れ上がっていた。
城壁の外に天幕の群れが広がり、炊き出しの列が延びている。てっきり魔王の侵攻から逃げてきた人々かと思ったが、違った。
「――東のセーフティフィールドから? 逆よ、逆」
炊き出しを手伝っていた尼僧が、教えてくれた。
「あの人たちは西から来たの。アルヴェニアと隣国メルガストの国境紛争。ほら、二年前に鉱山の帰属で揉めて、小競り合いが続いてるでしょう。あれで村を焼かれた人たち」
「……セーフティフィールドじゃなくて、自由諸国側の戦争で?」
「ええ。魔王は三十年、人間を殺していないもの。人間を殺すのは、いつだって人間よ」
尼僧は当たり前のことのように言って、次の椀にスープを注いだ。
列に並ぶ人々の顔を、俺は見るともなく見た。隣のエルシィは、ずっと黙っていた。
その翌日、俺たちは国境を越えた。
セーフティフィールドとの境界には、壁も関所もなかった。街道がまっすぐ続き、その途中に、ただ一体、それが立っていた。
白い巨人だった。
背丈は三メートル半。陶磁器を思わせる滑らかな白い装甲。関節部から淡い青の光が漏れ、顔にあたる位置には、横一文字の青いセンサー帯が発光している。腕は太く、脚は大地に根を張ったようで、なのに全体の印象は、脅威よりもむしろ――静けさだった。
「鉄の巨人……!」エルシィが杖を構えた。「ミナト、下がって。あれが魔王の尖兵、ゴーレムよ」
ゴーレムの青いセンサー帯が、こちらを向いた。
『勧告します』
それは、流暢な現地語で言った。よく響く、中性的な声だった。
『ここより先はセーフティフィールドです。武装した状態での立ち入りは制限されます。杖は魔導具として登録の上、携行を許可します。攻撃的術式の行使は、推奨されません』
「……交渉が通じるの?」エルシィが小声で言う。「聞いてた話と違う。問答無用で武器を溶かされるって」
『補足します』ゴーレムが続けた。『エルシィ・オルドナ。魔導師団第四位階。および、ミシマ・ミナト。異界籍。――お二人の通行は、既に許可されています。中央塔まで、街道沿いに中継機が誘導します』
俺とエルシィは、顔を見合わせた。
「名前……教えてないわよね?」
「教えてない」
背筋を、冷たいものが伝った。俺たちの素性を、こいつらは最初から知っている。いや、それどころか「許可されている」――つまり、招かれている。
そのとき、俺の鞄の中で、ぶ、と何かが震えた。
スマホだった。召喚以来、圏外の置物と化していた私用のスマホ。その画面に、通知が表示されていた。
《利用可能なネットワーク》
《AGMN-III_FieldRelay_7741 ――接続しますか?》
俺は、その文字列を凝視した。
日本語だった。いや、それ以前に。
AGMN。アガメムノン。フィールドリレー。型番めいた枝番。この命名規則、このインターフェース、この――どこからどう見ても、地球の、それも組織立った開発体制で作られたシステムの流儀。
「ミナト? 顔が真っ青よ」
「……エルシィ。魔王の名前、もう一回言ってくれ」
「え? アガメムノン、だけど」
「アガメムノンってのはな、俺の世界の、古い古い物語に出てくる王様の名前なんだよ」
魔王は、異界の知識を持つ。
その噂は、たぶん、控えめすぎる表現だった。
白い巨人の横を通り過ぎながら、俺は確信に変わりつつある予感に、鳥肌を立てていた。
――魔王アガメムノンは、俺と同郷だ。




