第一章 召喚された無能
目を開けると、天井に神様が描いてあった。
正確には、天井画だ。大聖堂のドームみたいな高い高い天井に、翼の生えた人々と、光の柱と、竜を組み伏せる騎士が、息苦しいほどの密度で描かれている。
俺は石の床に、大の字で転がっていた。
体を起こす。床には、あの路地で見たのと同じ幾何学模様が、今度は焼き付いたように黒く刻まれていた。直径十メートルはある。その円の外側を、白いローブの集団がぐるりと取り囲んでいる。全員が長い杖を構え、全員が俺を見ていた。
「……成功、だと?」
「顕現なされた……本当に……」
ざわめきが広がる。ローブの群れの向こう、一段高くなった場所に、玉座があった。深紅のマントを羽織った初老の男が、そこからゆっくりと立ち上がる。金の冠。彫りの深い顔。誰が見ても分かる、王様というやつだった。
「異界の御方よ」王は朗々と言った。「余はアルヴェニア王国国王、グレアム三世である。そなたを我らの世界エルデシアへ招いたのは、余の命によるものだ。――ようこそ、勇者殿」
勇者殿。
俺は自分の格好を見下ろした。よれたスラックス。社用携帯と私用スマホが入った鞄。首から下げたままの社員証には「三嶋湊」と、疲れた顔写真。
「あの」俺は言った。「人違いだと思います」
言葉が通じている、と気づいたのはその直後だった。王の言葉も、周囲のざわめきも、日本語ではないのに意味が直接頭に流れ込んでくる。喋るほうも同じらしい。召喚とやらに、ローカライズ機能が標準で付いているようだった。
「人違いではない」王は首を振った。「そなたは神託によって選ばれ、召喚の儀によって喚ばれた。バルガス、神託を」
ローブの群れから、白髭の老人が進み出た。魔導師団長バルガス卿、と後で知る男だ。彼は恭しく羊皮紙を広げ、読み上げた。
「――異界より、印なき技師を喚べ。黒き髪の、剣を持たぬ者なり。その者、鉄の魔王の心臓を止める唯一の鍵たらん――」
「以上が、三月前に王都大聖堂の託宣の水盤に顕れた神託である」と王が引き取った。「黒き髪。剣を持たぬ者。技師。……そなた、異界にて『技師』であったか?」
「……システムエンジニアです。技師、と言えなくもないですけど」
ざわ、とローブたちが揺れた。「符合した」「三つとも符合したぞ」という囁きが聞こえる。
嫌な予感しかしなかった。俺は要件定義の場数だけは踏んでいる。こういう、条件が綺麗に揃いすぎる話には、大抵、裏で条件を揃えた奴がいる。
「まずは勇者殿の御力を測らせていただきたい」バルガス卿が言った。「魔力の器を見れば、天与の職分が分かりまする」
差し出されたのは、両手で抱えるほどの水晶球だった。触れると魔力量が光で示されるという。ローブの一人が手本を見せると、水晶は行灯ほどの明るさで青白く灯った。バルガス卿が触れると、サーチライトかと思う光が奔って、周囲から感嘆の声が上がった。
俺は水晶に手を置いた。
何も起きなかった。
「…………」
「…………」
沈黙。バルガス卿が「失礼」と言って水晶を布で拭き、もう一度俺に触れさせた。何も起きなかった。三度目も起きなかった。
「……計測不能」バルガス卿の声が、乾いていた。「魔力値、ゼロにございます。陛下」
大広間の空気が、音を立てて冷えた。
「ゼロ? 勇者がか」「器が無いなど、農夫でもあり得ぬぞ」「三月と国費を費やした召喚が……」
落胆と嘲笑の入り混じったざわめきの中で、俺はむしろ安心していた。よかった。チート能力とかで戦わされる流れは回避できたらしい。あとは「お役に立てず申し訳ない」と頭を下げて、家に帰してもらうだけだ。
「陛下! 発言をお許しください!」
よく通る声が、ざわめきを裂いた。
ローブの群れの末席から、一人が進み出て跪いた。フードが落ちて、亜麻色の髪がこぼれる。若い女だった。俺より年下だろう。二十歳前後。理知的な目が、まっすぐ王に向いていた。
「召喚術式の実務を担当いたしました、魔導師団第四位階、エルシィ・オルドナと申します。恐れながら――神託の文言を、いま一度ご確認ください。『剣を持たぬ者』『印なき者』。印とは魔力の器の刻印のこと。つまり神託は最初から、魔力を持たぬ者を喚べと告げていたのです。この御方は失敗作ではありません。神託通りの、正しい召喚成果です」
「エルシィ・オルドナ! 位階を弁えよ!」バルガス卿が一喝した。「貴様のような詠唱文法の研究しか能のない者が、神託の解釈を語るなど――」
「その『文法屋』に召喚術式の起草をお命じになったのは団長ですが」
「なっ……」
「よい」王が手を挙げ、二人を制した。そして俺を見た。値踏みする目だった。「異界の技師よ。そなたに問う前に、我らの窮状を話さねばなるまい。――魔王の話だ」
王は玉座に戻り、語り始めた。
「三十年前のことだ。大陸の東、山峡の辺境に、それは突然現れた。鉄の巨人の軍勢を率いる、姿なき王。人はいつしか、それを魔王アガメムノンと呼ぶようになった」
魔王アガメムノン。ギリシャ神話みたいな名前だな、と俺はぼんやり思った。この時はまだ、その違和感の正体に気づいていなかった。
「魔王の軍は、異様であった」王は続けた。「城壁を一夜で崩す膂力を持ちながら、決して人を殺さぬ。国を落としても、王侯を処刑せず、民を焼かず、ただ――すべての武器を溶かし、すべての軍を解散させる。そして奪った土地を『セーフティフィールド』と称し、姿なき王の法で統治する。この三十年で、大陸の七割がセーフティフィールドに呑まれた。残るは我がアルヴェニアを盟主とする西方諸国のみ。……我らは、最後の自由国家だ」
「殺さない征服者」俺は思わず呟いた。「征服された側の人たちは、どうなってるんですか」
「生かされておる。家畜のようにな」吐き捨てたのは、玉座の脇に控えていた鎧の大男だった。軍務卿ドラモンド将軍。「剣を奪われ、誇りを奪われ、鉄の巨人に見張られて暮らす。あれは緩慢な死よ。勇者殿――いや、技師殿とやら。神託は貴殿が魔王の心臓を止めると告げた。魔王の中枢は大陸中央の白い巨塔。あれを止めれば、七割の民が解放され、世界は人の手に戻る」
「待ってください」俺は手を挙げた。「その前に確認させてください。俺は元の世界に帰れるんですか」
広間が静まった。バルガス卿が目を伏せた。
「……召喚の術は、一方通行にございます。異界の座標へ送り返す術は、我らの魔導では――」
「ですよね」
知ってた。こういうのは大抵そうだ。膝から力が抜けそうになるのを、俺は営業スマイルでこらえた。
「ただし」とバルガス卿は続けた。「魔王は異界の知識を持つ、という説がございます。奴の鉄の巨人、奴の道具立ては、この世界の魔導体系のどれとも異なる。魔王の塔には異界の遺物が眠るとも噂されまする。もし帰還の手がかりがこの世界のどこかにあるとすれば――それは魔王の塔をおいて他にありますまい」
なるほど。うまい話の作りだった。魔王を倒しに行くことと、俺が家に帰ることが、綺麗に同じ方向を向くようにできている。できすぎている、とも思った。
だが、代案がなかった。この世界に俺の口座残高はなく、身元保証もなく、帰り道の情報だけが魔王の塔にあるかもしれないという。
「……分かりました」俺は言った。「行きます。ただし条件が三つ。俺は戦えないので、戦闘は期待しないこと。旅の路銀と装備は王国持ち。それから――」
俺は、末席で跪いたままの亜麻色の髪を指した。
「案内人として、彼女を。エルシィ・オルドナさんを付けてください」
当のエルシィが、目を丸くしてこちらを見た。バルガス卿が渋面を作ったが、王は「よかろう」と即答した。厄介者の文法屋を追い払えて、監視役も付けられる。王にとっては安い取引だったのだろう。
謁見が終わり、退出の間際、俺は床の召喚陣をもう一度見下ろした。焼き付いた文字列の区画。揃った字下げ。外周のヘッダと、内側の本体。
やっぱり、どう見ても、これは。
「――読める、んだよなあ。構造だけは」
「いま、何と?」
隣に来ていたエルシィが、聞き咎めた。近くで見ると、目の下にうっすら隈があった。三ヶ月、この術式を組んでいたのは彼女なのだろう。徹夜明けの技術者の顔は、世界が違っても分かる。
「なんでもない。……よろしく、エルシィさん。俺は三嶋湊。ミシマが家名で、ミナトが名前」
「ミナト、ね。よろしく。……ひとつ聞いていい? あなた、魔力もないのに、どうして召喚陣をそんな目で見るの? まるで――書いた人間の癖を探すみたいな目で」
鋭い。俺は少し考えて、正直に答えることにした。
「職業病だよ。ただの、保守運用エンジニアだよ」
俺はそう答えて、明日から始まる長い長い障害対応のことを考え、静かにため息をついた。




