プロローグ 金曜、二十五時
世界というものは、誰かの雑な要件定義でできている。
入社五年目にして俺がたどり着いた、ささやかな真理だった。
金曜の深夜二十五時。正確に言えば土曜の午前一時。株式会社ネクサスウェア第三開発部のフロアで、俺――三嶋湊、二十七歳は、本番リリースの完了報告メールを打っていた。
件名「【完了】顧客管理システム更改 本番リリース作業のご報告」。本文、異常なし。切り戻しなし。デスマーチの終着駅としては上々の部類だ。三ヶ月前、顧客が「とにかく全部いい感じに」という一行の要望を投げてきたときには、この日を無事に迎えられるとは思っていなかった。
「三嶋くん、まだいたの」
振り向くと、プロジェクトマネージャーの佐伯さんが、コンビニ袋を提げて立っていた。
「メール打ったら帰ります。佐伯さんこそ」
「月曜の障害報告書の下書き。まだ障害起きてないけど」
「起きる前提なんですね」
「起きない前提で書類を作らないのが、大人になるということです」
佐伯さんはそう言って、袋から出した缶コーヒーを一本、俺のデスクに置いた。こういうところがあるから、この人の下では辞められない。
「三嶋くんはさ」缶のプルタブを起こしながら、佐伯さんは言った。「腕はいいのに、変なところで枕を高くして寝られないタイプだよね。仕様書に書いてないことまで気にする」
「書いてないことが本番で人を殺すんですよ。比喩ですけど」
「その調子で頼むよ。……お疲れさま。よい週末を」
よい週末。いい響きだ。土曜の午前一時に聞くのでなければ、もっとよかった。
終電はとうに消滅していた。タクシーアプリを開くと、深夜料金に雨の割増が乗って、目玉が飛び出るような数字が表示された。俺は画面を閉じ、歩いて帰ることにした。アパートまで四十分。リリース明けの頭を冷やすには、ちょうどいい距離だ。
雨上がりの路面に、信号の赤がにじんでいた。
コンビニで缶ビールとカップ麺を買った。袋を提げて、いつもの近道――ビルとビルの間の、細い路地に入る。
その路地の真ん中で、地面が光っていた。
最初は、水たまりに看板のネオンでも映っているのかと思った。だが違う。光は路面そのものから滲み出ていて、淡い燐光の線が、幾何学模様を描いていた。二重の円環。円周に沿って並ぶ、見たことのない文字。円の内側には、文字列が整然と区画分けされて詰め込まれている。
俺は疲れた頭で、それを数秒、眺めた。
綺麗にネストしてるな、というのが最初の感想だった。外周の環がヘッダで、内側のブロックが本体。区画ごとに先頭の記号が揃っていて、字下げまでしてある。まるで――。
まるで、誰かが書いた、行儀のいいコードみたいだ。
光が強くなった。
足元から浮遊感が突き上げてきて、ビールとカップ麺の袋が手から離れて宙に浮いた。まずい、と思ったときにはもう遅かった。視界が白に塗り潰され、耳の奥で、大量のファンが一斉に回り出すような轟音が鳴った。
意識が途切れる寸前、俺は思った。
――障害報告書、やっぱり月曜までに要るんじゃないか。




