第9章 環の証言
七階のボタンを押した少女は、消えた。
監視カメラにも記録は残っている。
エレベーターも正常に動いていた。
それなのに――彼女だけがいなくなった。
どうか最後の真相までお付き合いください。
環が一般病棟に移されたのは、放火から五日後のことだった。
十一月二十二日。午後遅く、俺は大阪市民病院の四階にある個室のドアをノックした。環の母親が中からドアを開け、俺の顔を見て無言でうなずいた。この五日間で彼女はさらに痩せて見えたが、目の奥にはかすかな安堵が浮かんでいる。娘が生きている——ただそれだけのことが、彼女を支えてきた。
「環さん、高橋さんがいらしたよ」
ベッドの上で、環は上半身を少しだけ起こしていた。酸素マスクは外され、鼻に細いチューブが通されている。顔にはまだ火傷の赤みが残り、左の頬から首にかけてガーゼが当てられていた。腕には点滴が何本もつながり、指先はかすかに震えている。声を出すたびに喉に痛みが走るのが見てとれた。
彼女は、俺が想像していたよりずっと小さかった。二十七歳というより、十代の少女のまま時間が止まったようだった。十年間、部屋に閉じこもっていたせいで、身体の成長がどこかで止まっている。
「……高橋、さん」
声はかすれていたが、はっきりと聞き取れた。
「初めまして。あなたのメッセージ、読みました。ちゃんと届いています」
環はゆっくりとうなずき、まぶたを閉じた。しばらく呼吸を整え——この病室では、呼吸そのものがまだ重労働なのだ——再び目を開けた。
「あれは、十一歳の秋でした。十一月。教室の窓から外を見ると、校庭の桜が葉を全部落としていて——優斗は、休み時間になるといつもその木を窓から眺めていました。絵が好きで、使い終わったプリントの裏に、クレヨンで桜の木を何枚も描いていて——」
環は天井を見上げた。記憶の中の教室を今ここに取り戻そうとするかのように、ゆっくりと瞬きをする。
「朝比奈先生は、優斗が何か失敗するたびに、教室の前に立たせました。『みんな、これができない人間の見本です』と言って。忘れ物をすると放課後まで帰してもらえず、掃除の時間は一人で廊下の端から端まで雑巾がけ。体育の授業でうまくできないと、『何度やればできるんだ』と言って、他の子が家に帰った後もずっと補習。給食中も、優斗だけが食べ終わるまで席を立てなかった」
環の声は徐々に小さくなっていった。だが、語るのをやめなかった。
「十一月十五日。五時間目の体育の授業で、優斗はマット運動をさせられていました。前転がうまくできないからと、朝比奈が直接指導するといって。何度も、何度も——優斗の顔は真っ青で、もうできないと言っても、やめさせてもらえなかった。それで着地に失敗して、頭からマットに落ちて——」
彼女はそこで言葉を失った。目を閉じ、まぶたの裏でその光景を見ている。十一歳の秋の教室が、十年の時を超えて今ここにある——そんな眼差しだった。
「保健室に運ばれた優斗は、そのまま教室に戻ってきませんでした。六時間目が終わって朝比奈が教室に入ってきた時——いつもの笑顔は消えていました。でも、焦っているというより、何かを決断した人間の顔だった。あの顔は今でも覚えています」
環は震える手で布団の端を握った。
「朝比奈は教壇に立って、こう言いました。『一ノ瀬は転校することになった。今日が最後だ』——十一月に、突然の転校。教科書も上履きも教室に残ったままなのに。誰も信じなかった。でも、誰も何も言えなかった。教師がそう言ったのだから」
環が一度、深く息を吸い込んだ。それから、震える声で続ける。
「朝比奈は教卓の上に内申書のファイルを置きました。あの分厚い茶色の封筒です。そして言ったんです。『これはお前たちのためでもある。いいか、一ノ瀬のことは誰にも話してはいけない。守った者は——ここに全員、最高評価をつける』——それから彼は、教壇の上から一人ひとりの顔を、順番に見下ろしました。私の顔も、綾乃の顔も、美晴の顔も、紗英の顔も——三十四人全員を、一人ずつ」
「脅したんですね」
「はい」環の声は涙で震えていた。「『破った者は高校に行けなくなると思え。高校だけじゃない。お前たちの将来は全部なくなる。この街で人間として生きられなくなる——そういうことだ』——十一歳の子供に、教師が——」
彼女は顔を手で覆った。母親がそっと背中をさする。
しばらくして、環は手を下ろした。目は赤く濡れているが、声は先ほどより強くなっていた。
「教室の三十四人は、それから誰も優斗のことを口にしなくなりました。翌週には席も片づけられ、ロッカーも空になって。卒業アルバムからも名前が消えて——本当に、まるで最初からそんな子はいなかったみたいに。私たち三十四人は、十一歳で共犯者にされたんです。口を閉ざすことで自分の将来を守る側に回る——朝比奈は、そういう仕組みを作った」
彼女は自分の手を見つめ、指を一本ずつ折りながら言葉を続けた。
「私が覚えてる——優斗が教室からいなくなる前の日、十一月十四日。休み時間に彼は一枚の絵を描いていました。黒いクレヨンだけで塗りつぶした絵でした。『何を描いてるの』と聞いたら、『夜の桜の木なんだ』と。花も葉もない、枝だけの、真っ黒な桜。十一歳の子が描く絵じゃなかった。あれは——たぶん、彼自身だったんだと思います」
環は枕の下から一枚の紙を取り出した。折りたたまれたコピー用紙を広げると、鉛筆で描かれた少年の顔があった。不器用な線で描かれた、少しうつむき加減の少年。目はまっすぐ前を見ている——いや、ここではないどこかを見つめている。
「十年間、私が覚えている優斗の顔です。写真はもうどこにもない。卒業アルバムからも、卒業写真からも、学校の記録からも——全部消されて。だから自分で描きました。下手だけど——これが優斗です。この子が確かに、生きていたんです」
俺はその紙を両手で受け取り、手帳に挟んだ。環が十年間、誰にも見せずに守り続けてきた優斗の唯一の肖像——それが今、俺の手の中にある。
「環さん、あなたの証言を使わせてください」
環は力強くうなずいた。
「優斗のために——使ってください。綾乃さんもきっと、同じことを言うと思います。あの子は、ちゃんと誰かに覚えていてもらう資格がある。ただそれだけのことなんです」
俺は深く頭を下げ、病室を出た。
廊下の窓から、十一月の夕日が差し込んでいる。手帳を開き、万年筆を握る。
『黒崎環の証言——朝比奈悟による日常的虐待。十一月十五日、体育のマット運動で頭部受傷。保健室搬送後、教室に戻らず。翌日、朝比奈は「転校」と虚偽説明。内申書の最高評価を餌に三十四人の児童を組織的口止め。「破った者は人間として生きられなくなる」——十一歳にそう言った。優斗が最後に描いたのは花も葉もない真っ黒な桜——自身の肖像。環が十年守り続けた鉛筆画が、優斗の存在を証明する唯一の物的証拠。』
ペン先を置き、顔を上げる。窓ガラスに映った自分の顔はひどく疲れて見えた。だが、目だけは違った。そこには、かつて新聞記者として権力と戦っていた頃の、あの目が戻っている。
(次は——朝比奈の足元を掘り起こす。あの男が、誰とつながっているのか)
手帳を閉じ、病院の廊下を歩き出した。足音だけが静かなフロアに響く。
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