第10章 歪む日常
七階のボタンを押した少女は、消えた。
監視カメラにも記録は残っている。
エレベーターも正常に動いていた。
それなのに――彼女だけがいなくなった。
どうか最後の真相までお付き合いください。
十一月の最終週に入り、空気は本格的な冬の冷たさを帯び始めていた。
ここ数日、異変は静かに、しかし確実に進行していた。俺が連絡を取っていた情報提供者のうち三人が、立て続けに手を引いたのだ。理由はみな同じ——「上から止められた」、あるいは「もう関わりたくない」。
一人は教育委員会の元職員で、朝比奈の過去について断片的な情報をくれた人物だった。彼は電話口でこう言った。「高橋さんには悪いけど——俺にも家族がいる。これ以上は勘弁してくれ」。受話器の向こうで、小さな子供の声が聞こえた。
二人目は地元紙の記者。三年前、美晴の失踪事件を追っていたが記事を握りつぶされたと打ち明けてくれた男だ。彼はもっと端的だった。「情報が漏れてる。あんたの動きは筒抜けだ。巻き込まれる前に手を引け」
三人目は電話にも出なかった。代わりに、ショートメッセージが一通だけ届いた。『もう連絡しないでください』。
(情報が漏れている——誰が、どこに)
その答えは、思ったより早くわかった。
十一月二十八日、夕方。喫茶店『そうれん』の隅の席でコーヒーを飲んでいると、見覚えのある背広姿が入り口に立った。古川誠。同じ新聞社で机を並べた元同僚であり——俺を解雇に追い込んだ男。
「久しぶりやな、高橋」
古川は注文もせずに俺の向かいに座った。三十七歳。痩せてはいるが、スーツの仕立ては記者時代よりずっと良くなっている。編集デスクとしての立場が、服装にまで現れていた。
「なんの用や」
「いや、近くまで来たから顔を見ようと思ってな。相変わらずコーヒーだけで粘ってるんか」
「金がないんでね」
古川は短く笑った。昔と同じ笑い方だったが、目の奥は笑っていなかった。
「なあ高橋、サンライトハイツの件——もうやめとかへんか」
俺はコーヒーカップを置いた。指先が冷たい陶器の表面で止まる。
「お前が言うことか、それは」
「お前のためを思うて言うとるんや。あの事件には——」古川は声を潜め、周囲の客に聞こえないよう前のめりになった。「いろんなもんが絡みすぎとる。教育委員会だけやない。警察も、市役所も、地元の名士も——みんな一枚岩で、十年間ずっとこの街を覆い隠してきたんや。お前一人でどうにかできる規模の話やない」
「誰に頼まれて来た」
古川の顔から、薄っぺらい友人の仮面が剥がれた。
「……仕事や。編集者として、会社の看板を守るのも仕事のうちや」
「つまり、朝比奈か。それとも、その上か」
古川は答えず、代わりに名刺を一枚、テーブルの上に置いた。『大阪日報 編集部 古川誠』——かつて俺がいた新聞社の名刺だった。
「これが最後の忠告や。手を引け。全部なかったことにしろ。お前が一歩も引かなければ——次はこんな優しいもんやない」
「お前はそれでいいのか」
立ち上がりかけた古川の肩が、一瞬だけ止まった。
「昔、俺たちは一緒に追いかけてたやないか。権力の不正を暴くのが記者の仕事やって——」
「あの頃は若かったんや」古川は振り返らずに言った。「俺はもう、若くない」
ドアが閉まり、ベルの音だけが店内に残った。
その夜、俺は缶ビールを二本空けてから、神崎に電話をかけた。
「——情報が漏れとる。こっちの動きが全部バレとるみたいや」
「そらそうやろ」神崎はあっさりと言った。「お前が調べとる相手は、この街の教育行政を十年間仕切ってきた男や。市役所にも警察にも、協力者は腐るほどおる。情報を掴まれるのも当然や」
「古川が来た。俺の元同僚で——今は編集デスクの——」
「ああ、知っとる。お前をクビにした男やろ。そいつが朝比奈側についとるんなら、状況はかなりまずい。新聞社の情報網が敵に回ったいうことやからな」
神崎は一呼吸置いてから、声のトーンを落とした。
「高橋、お前は相手の本当の大きさを知らん。教育課長の朝比奈は、まだ入り口や。その上に、もっと大きなもんが動いとる。地元の名士——代々この街の政治と経済を牛耳ってきた家系や。学校の土地も、マンションの建設許可も、全部そいつらが握っとる」
「そんな相手に、なんで俺が——」
「その大きなもんに噛みつくには、証拠が足りんのや。お前が集めた証言だけではな——事実関係を裏付ける物的証拠が必要や。金の流れ。土地の登記簿。行政文書の原本——そういうもんを掴まんことには、相手は絶対に倒せん」
受話器を握る手に力が入った。神崎の言っていることは正しかった。だが——
「それでも、やめるわけにはいかんのです」
「わかっとる。お前の親父さんのこと、俺は知っとるからな」
通話が切れた後、俺はしばらく天井を見上げていた。部屋の隅に積まれた資料の山が、蛍光灯の下で深い影を落としている。
翌日の午後、見知らぬ番号から着信があった。
「——高橋修司さん、ですか」
若い女性の声だった。はっきりとした口調で、しかしどこか緊張を含んでいる。
「そうです。どちらさまで」
「五十嵐真由と申します。大阪日報の記者です。お時間をいただけませんか」
大阪日報——古川の新聞社だ。
「古川から何か——」
「違います」彼女は即座に否定した。「私は古川編集デスクとは別の動きをしています。むしろ——あなたに協力したいんです」
俺はスマホを持ち替えた。
「どういうことですか」
「私は三年前、入社したばかりの時に橘美晴さんの失踪事件を取材しようとして、記事を差し止められました。理由は『社の方針』——要するに、上からの圧力です。それからずっと、この件が引っかかっていて。最近、あなたが動いているのを知って——」
「なぜ協力を」
「私は後悔したくないんです。三年前、記事を差し止められた時に何もできなかったことを——ずっと後悔してきました」
彼女の声には、古川のような政治的な計算はなく——ただの記者としての誇りと、三年前の無力さへの怒りだけがあった。
「わかりました。一度、会いましょう」
待ち合わせは翌日、梅田の喫茶店。五十嵐真由は三十二歳、ショートカットに縁なし眼鏡。スーツの上にトレンチコートを羽織り、鞄から取り出した取材ノートは手書きのメモでびっしりと埋まっていた。彼女は三年前、美晴の事件をスクープしようとして記事を差し止められてから——一人でずっと資料を集め続けていたのだ。
「これを、使ってください」
彼女が差し出した資料の中には、朝比奈が教育課長に就任した経緯に関する内部文書のコピーや、サンライトハイツの建設に関わった業者のリストが含まれていた。俺が一人で集めた情報の、少なくとも倍はある。
同じ日の夕方。俺は中央図書館の閉館間際に滑り込み、綾乃に声をかけた。
「少し、話せますか」
綾乃は無言でうなずき、カウンターの奥の休憩室に案内してくれた。狭い部屋に二人きりになると、不思議と肩の力が抜けた。
「情報が漏れてます。元同僚に裏切られて——彼は今、敵側にいる」
「……怖いですか」
綾乃の問いは、静かだった。
「怖いです」初めて、誰かの前でその言葉を口にした。「相手が見えない。どれだけ大きな力が動いているのか——でも」
「でも」
「やめるわけには、いかないんです。あの子たちのためにも——優斗のためにも」
綾乃はしばらく黙ってから、ぽつりと言った。
「私も、怖かった。十年間ずっと。でも今は——あなたがいるから、少しだけ怖くない」
閉架書庫の古い紙の匂いが、静かに部屋を満たしていた。
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