第8章 教師の貌
七階のボタンを押した少女は、消えた。
監視カメラにも記録は残っている。
エレベーターも正常に動いていた。
それなのに――彼女だけがいなくなった。
どうか最後の真相までお付き合いください。
大阪市役所の教育委員会が入るフロアは、無機質な蛍光灯と整然と並んだデスクの群れで構成されていた。
十一月の第三週、午前十時。受付で名前を告げ、朝比奈悟との面会を申し込んだ。事前の電話では「地域教育に関する取材」とだけ伝えてある。元新聞記者という肩書きは、こういう時に便利だ。相手に警戒心を抱かせず、かつ無視できないだけの敬意を引き出せる。
五分ほど待たされて、廊下の奥から背の高い男が歩いてきた。四十五歳。資料より痩せていて、頬骨がわずかに浮いている。グレーのスーツは仕立てがよく、ネクタイは落ち着いた紺。教育行政の管理職らしい、抑えた清潔感のある装いだ。アルバムの写真で見た十年前の彼より、むしろ今のほうが若々しく見える——それは権力を持つ者の特徴かもしれない。
「お待たせしました。朝比奈です」
声はよく通るバリトンだったが、決して大きくはない。相手の警戒を解くための音量を身体が覚えている——そんな話し方。
「高橋です。お時間いただきありがとうございます」
「いえいえ。どうぞ、こちらへ」
会議室ではなく、朝比奈個人の執務室に通された。窓際の机には書類の束が三つ、角度を揃えて積まれている。壁には教育委員会のスローガンポスターと、市政功労者表彰の盾。机の上にはパソコンのほかに、小さな写真立てが一つ——後ろ向きに置かれていて、何が写っているかは見えなかった。
「地域教育についての取材と伺いましたが」朝比奈は机の向こう側に腰を下ろし、両手を組んで微笑んだ。「具体的には、どのような」
「十年前、桜台小学校の五年二組で担任をされていたと伺いました」
朝比奈の表情は動かなかった。口元の笑みはそのままだ。ただ——組んだ指の一本が、かすかに跳ねた。
「ええ、確かに。もう十年も前ですが——懐かしいですね。あの頃の教え子たちも、今では立派な社会人です」
「橘美晴さんと野口紗英さんについては、何か覚えておられますか」
「もちろんだとも」即答だった。用意していた答えをなぞるような口調。「美晴はクラス委員長で、優秀な子でした。責任感が強くて、教師としては本当に助かる生徒でね。紗英は少し内向的だったけど、友達思いのいい子でした。ただ——」朝比奈は眼鏡のブリッジを押し上げた。タイミングが整いすぎていた。「失踪の件は、私も心を痛めています。でも十年以上経ちましたからね。教育者としてできることは、もう——」
「一ノ瀬優斗くんについては、いかがですか」
朝比奈の右手が、机の上で停止した。文字通り、ぴたりと動きを止めた。
「……どなたです、それは」
「一ノ瀬優斗。同じクラスに在籍していたはずの男子児童です」
「ああ」朝比奈はかすかに首を傾げ、考える素振りを見せた。あまりにも滑らかな演技——政治家の記者会見で何度も見てきた類いのものだった。「いやあ、申し訳ない。三十四人も生徒がいると、十年も経てばさすがに全員の名前までは——」
「いいえ、そのクラスには彼の記録が一切ありません。卒業アルバムからも、学籍名簿からも——あらゆる記録から、彼の存在だけが消されています。まるで最初からいなかったかのように」
朝比奈は口を閉じた。笑みはまだ顔に貼りついているが、目尻の筋肉が硬直しているのがわかる。
「高橋さん——あなたは、何者です」
「元新聞記者です。今はフリーで、この事件を個人的に追っています」
「記者」
朝比奈は背もたれに体重を預け、初めて笑みを消した。眼鏡の奥の目が、品定めをするように俺の全身を上から下までなぞる。一瞬前までの好々爺然とした態度は影を潜め、そこにいるのは別の人間だった——囲いを張られた獣が、敵の力量を測る時の目だ。
「お立場は理解しました。ですが——一ノ瀬優斗という児童について、私は記憶にありません。もし記録がないのであれば、彼はもともと在籍していなかったのでしょう。あなたが何か勘違いを——」
その時、ふと目に入った。朝比奈が机の上で動かした手が、無意識に——いや、あまりにも習慣化された動作で——写真立てに触れたのだ。先ほど後ろ向きだったそれを、指先で起こすように回した。
古いクラス写真だった。校庭の桜の木の前に整列した、三十四人の児童。卒業アルバムで見たのと同じ五年二組の集合写真。そして中央に立つ、若き日の朝比奈悟。
だが、アルバムの写真とは決定的に違う点があった。アルバムではぼんやりとしか見えなかった優斗の顔が、この写真でははっきりと写っている——にもかかわらず、その部分だけ、紙の表面が異様にすり減っていた。
指でなぞった痕跡だった。何度も、何度も、執拗に。親指の腹で押し潰すように——あるいは、存在そのものをこの世から消し去ろうとするかのように。
この写真を毎日見るたびに、朝比奈は優斗の顔を指で擦り続けてきたのだ。十年間。
「——その写真」
俺が指をさすより早く、朝比奈は写真立てを掴み、引き出しの中に押し込んだ。動作は素早かったが、手は微かに震えている。
「古い写真です。お見せできるようなものじゃない」
顔を上げた朝比奈の口元には、再び笑みが浮かんでいた。だがそれは、さっきまでの教育的な微笑みとは全くの別物だった。口元だけが弧を描き、目はまったく笑っていない。捕食者の目だ——自分以外のすべてを駒としか見ていない人間の。
「高橋さん。ひとつだけ、アドバイスを」
朝比奈は机の上で両手を組み直し、声をさらに低くした。部屋の空気が、密度を変えたように重くなる。
「過去を掘り返すことは、誰のためにもなりません。あなたのためにも——そして、あの子たちのためにも」
「あの子たち、ですか」
「ええ。三十四人の教え子たちです。彼らは今、それぞれの人生を懸命に生きている。十年前の些細な出来事で、その人生を狂わせる権利が——あなたにあるとお思いですか」
些細な出来事。
十一歳の子供が教室で命を落とし、その事実が組織的に隠蔽され、三十四人の口が十年間封じられてきた。それを朝比奈は「些細な出来事」と言った。そして「狂わせる」——まるで、真実を知ることが人生の破綻であり、嘘の上で生きることこそが救いだと言わんばかりの口調で。
俺は手帳を閉じ、立ち上がった。
「お時間いただき、ありがとうございました」
「いいえ。また何かあれば、いつでもどうぞ」
ドアを開けて廊下に出た瞬間、背中に朝比奈の視線が突き刺さっているのを感じた。好奇心でも好意でもない——静かな、しかし確実な敵意。獲物を追い詰める時を待つ、捕食者の忍耐。
(あの男は、優斗の写真を十年間、毎日指で擦り続けてきた)
市役所を出て、十一月の冷たい空気を肺いっぱいに吸い込む。ベンチに腰を下ろし、手帳を開く。万年筆を握る指が、かすかに震えていた。
『朝比奈悟——執務机に五年二組の写真。優斗の顔の部分だけ執拗に擦り減らした痕跡。十年間、毎日。』『「些細な出来事」という言葉で優斗の死を形容。』『最後の目——捕食者の目。確信:この男がすべての元凶。』
手帳を閉じ、万年筆をペンケースに戻す。指の震えはまだ止まらない。寒さではなかった。この感情に名前をつけるなら——怒り。父が真実に殺されてから、ずっと押し殺してきた類いの、二度と蓋をできない怒りだ。
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました。
『七階のエレベーター』は、人間の創作とAIの力を組み合わせながら制作した作品です。
物語の構想や登場人物、ストーリーの調整を重ねながら、一つの作品として形にしました。
もし少しでも楽しんでいただけたなら、とても嬉しく思います。
また、本作の制作にはAI創作プラットフォーム「MoeGen」を活用しています。
物語や漫画を作ることに興味のある方は、ぜひ一度お試しください。
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最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。




