第6章 開かれた記憶
七階のボタンを押した少女は、消えた。
監視カメラにも記録は残っている。
エレベーターも正常に動いていた。
それなのに――彼女だけがいなくなった。
どうか最後の真相までお付き合いください。
十一月十五日。金曜日。
朝から空は鉛色に曇り、午後には冷たい雨が降り出した。俺は阿倍野区立中央図書館の向かいにある小さな公園のベンチで、綾乃が出てくるのを待っていた。コートの襟を立て、手帳を開き、時間を潰す。
十年前から毎年この日だけ欠勤する——田村の言葉を頼りに、朝七時から彼女のアパートの前で張り込んだ。八時二十分、黒いコートを着た綾乃が一人で出てきた。勤め先の図書館ではなく、地下鉄に乗って天王寺駅へ。そこから郊外行きの電車に乗り継ぎ、小さな無人駅で降りた。日頃の彼女からは想像もつかない、迷いのない足取りだった。
駅前から歩くこと十五分。周囲の景色が住宅地から畑へ、そして山裾の緑へと変わる頃、彼女が立ち止まったのは共同墓地の入り口だった。
俺は距離を取り、墓石の列の間から彼女の背中を見守った。綾乃は墓地の一番奥、古い区画の中でもひと際小さな墓石の前に立つと、バッグから線香を取り出して火を点け、しゃがみ込んだ。雨に濡れたコートの肩が、かすかに上下している。
十分ほど経った頃、立ち上がった彼女が振り返り、俺の姿を見つけて足を止めた。濡れた前髪が額に張りついている。逃げなかったのは、もう逃げることに疲れていたからかもしれない。
「……つけてきたんですか」
声に怒りはなかった。ただ、底の抜けたような響きがそこにあった。
「すみません。どうしても、あなたと話がしたかった」
綾乃は傘を傾け、墓石を見下ろした。黒い御影石に刻まれた名前——一ノ瀬優斗。享年十一歳。その下に、『桜台小学校五年二組 在籍』の小さな文字。クラス全員に忘れられたはずの少年の、これが最後の痕跡だった。
「今日は、なんの日ですか」
「命日です」彼女は静かに答えた。「十年前に死んだ、クラスメイトの」
墓石の花立には、新しい白い菊が供えられていた。今年は綾乃が一番乗りではなかった——誰かが、もっと早く来ていた。彼女は気づいていないようだったが、俺の目は花立の縁に残った煙草の灰と、かすかに焦げた紙の欠片に釘付けになった。線香ではなく、煙草と——紙切れ。誰かがこの墓の前で何かを燃やして立ち去った痕跡だった。
墓地を出てすぐの小さな喫茶店。窓際の席に向き合って座ると、雨はさらに強さを増し、窓ガラスを叩く音が店内の静けさをかき消していく。綾乃はカップを両手で包み込み、湯気の向こうで視線を落としたまま、ぽつりぽつりと言葉を紡ぎ始めた。
「一ノ瀬優斗は、小さな男の子でした。背の順でいつも一番前。休み時間は誰とも遊ばず、机に突っ伏して絵を描いているような子で——」
彼女はまるで、目の前にいる俺ではなく、十年前の教室の光景そのものに語りかけるように言葉を継いだ。
「担任の朝比奈先生は、優斗にだけ厳しかった。忘れ物をすると授業が終わっても帰してもらえず、掃除の時間は一人で廊下を端から端まで雑巾がけ。体育の授業では、できないことができるまで延々とやらされて——私たちは、見て見ぬふりをしていました。十一歳の子供にできることなんて、何もなかった。少なくとも、私たちはそう信じていた」
「それで、優斗くんは」
「十一月十五日。五時間目の体育の授業で、優斗はマット運動に失敗して頭を打ちました。朝比奈の指導で無理な補強運動をさせられていたんです。保健室に運ばれましたが——それっきり、教室には戻ってきませんでした」
綾乃の声が一段と小さくなった。雨音が沈黙の隙間を埋める。
「朝比奈は、その日の帰りの会で言いました。優斗は転校することになった、と。でも教科書も上履きもそのまま教室に残っていた。連絡先を聞きに行った子には、『もうここにはいない。忘れなさい』——それから」彼女は唇を噛み、一呼吸置いて続けた。「三十四人全員に、こう言ったんです。優斗のことは誰にも話すな。守った者には内申書の最高評価をつける。破った者は——高校に行けなくなると思え」
「つまり、クラス全員への組織的口止めを——」
「……はい。十一歳の子供たちに、です」
カップを持つ綾乃の指がかすかに震えている。彼女はそれを隠そうとせず、ただじっと自分の手を見つめていた。
「卒業アルバムから、優斗の写真だけが消えていました。名簿にも、個人写真のページにも、彼の痕跡はどこにもない。三十四人のクラスから一人が消えたのに——大人たちは全員、それを見なかったことにした。学校も、教育委員会も、保護者たちも。誰一人として、声を上げなかった」
綾乃はカップを置き、長い沈黙の後、もう一つの真実を口にした。声はほとんど囁きに近かったが、不思議と雨音に紛れることはなかった。
「私は——優斗のことを、誰よりもよく覚えています。だって彼は、私の隣の席でした。毎日同じ机で給食を食べて——優斗はいつも、嫌いなピーマンを私の皿にこっそり乗せてきました。私は気づかないふりをして、それを全部食べた。そんな小さなことだったけど——あれが、彼との唯一の秘密でした」
声が詰まり、彼女はしばらく言葉を継げなかった。窓の外では、雨がアスファルトを叩き続けている。
「優斗がいなくなってからの十年間、十一月十五日だけは——ちゃんと思い出そうと決めていました。他の三百六十四日は忘れていい。でもこの日だけは、あの子が確かに生きていたことを——」
「橘美晴が消えたのも、十一月十五日です」
綾乃はゆっくりと顔を上げた。眼鏡の奥の目が、初めて正面から俺を見据えている。
「美晴は——クラス委員長でした。朝比奈の口止めを、誰よりも忠実に守ったのが彼女です。先生の言うことは正しいと、みんなに言って回ってた。私が優斗の墓参りをしていることを知った時も——『もう、あのことは忘れなよ』と言いました」
「つまり、美晴は隠蔽に積極的に加わっていた」
「……そうです。そして野口紗英は——」
綾乃はうつむいた。
「紗英は、優斗がいじめられているのをいつも見ていました。でも、何も言わなかった。何もできなかった。彼女はただ——目を背けていた。私と同じように」
綾乃は両手で顔を覆った。肩が小さく震えている。
「私も結局、同じです。あの教室で起きたことを正そうとしなかった。十一歳の私にできたことなんて何もなかった——そう言い訳して、十年間逃げてきました。でも——美晴が消えて、紗英が消えて——」
彼女は手を下ろした。涙に濡れた顔を、真っ直ぐに俺に向ける。
「次は私かもしれません。ずっと、そう思ってきました」
「朝比奈悟は——今どこに」
綾乃の表情が、はっきりと硬くなった。
「教育委員会です。市の教育課長をしています」
彼女はバッグから一枚の名刺を取り出し、俺に差し出した。『大阪市教育委員会 教育課長 朝比奈悟』。官公庁の名刺らしい、抑えた書体と余白の多いデザイン。
「彼は十年前のことを、一度も謝っていません。それどころか今は教育行政の要職に就いて、ますます丁寧に仮面をかぶっている。私たちを黙らせた教師が、偉くなっていくのを十年間——ただ黙って見ているしかなかった」
雨が小降りになり、窓の外の雲の切れ間から細い光が差し込んでいた。俺は名刺を受け取り、手帳に慎重に挟んだ。
「ありがとうございます。あなたの証言が、この事件の鍵になります」
「——優斗のために」綾乃は初めて、ほんの少しだけ口元を緩めた。「あの子は、ちゃんと誰かに覚えていてもらう資格がある。そう思いませんか」
俺は深く頷き、伝票を手に取って席を立った。
駅へと歩きながら、頭の中で情報が静かに整理されていく。十年前の十一月十五日、五年二組で起きた事件。日常的な暴力。体育の授業中の事故。隠蔽と組織的口止め。卒業アルバムからの抹消。そして十年後——隠蔽の中心人物と傍観者の二人の少女が、同じ日付、同じマンション、同じエレベーターで消失。
担任教師・朝比奈悟。今は教育課長。権力の座で、十年分の嘘の上にあぐらをかいている。
俺は手帳を開き、新しいページの先頭に、万年筆で大きく書いた。
『一ノ瀬優斗——十年前の十一月十五日、五年二組で消された少年。担任は朝比奈悟。この名前が、すべての核心にある』
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