第5章 閉ざされた口
七階のボタンを押した少女は、消えた。
監視カメラにも記録は残っている。
エレベーターも正常に動いていた。
それなのに――彼女だけがいなくなった。
どうか最後の真相までお付き合いください。
水無月綾乃に会う前に、俺はまずリストの他の名前から当たることにした。
十一月に入って最初の週。手帳に書き込んだ三十四人の同級生のうち、電話番号が判明している十二人に片っ端から連絡を入れた。同窓会の幹事をしている——という方便は、この手の調査では最も通りがいい。嘘に嘘を重ねるのは記者の常套手段で、良心が最後に痛んだのがいつだったか、もう思い出せない。
最初の三人は、ほぼ同じ反応だった。
「五年二組? いやあ、三十過ぎると昔のことなんて覚えてないですよ。すみませんね」
四人目は少し違った。今は名古屋で働く女性で、声は丁寧だったが、五年二組という言葉が出た途端、口調が固くなった。
「……あのクラスのことは、思い出したくないんです。悪いけど、二度と連絡しないでください」
五人目と六人目は留守番電話のまま、折り返しもなかった。七人目——現在は大阪市内で保育士をしているという女性は、俺が「五年二組」と口にした瞬間、受話器を置いた。切るのではなく、机の上に置いた——通話は繋がったままで、何も聞こえない。息遣いすら消える。そういう拒否だった。
八人目は男性。兵庫県西宮市で会社員をしているはずだった。電話に出たのは母親らしき声の女性で、「息子は今ちょっと出られなくて」と最初は言った。俺が桜台小学校の同窓会だと名乗ると、長い沈黙の後に、こう言った。
「あの子、三年前から家から出られなくなってるんです。病院にも通ってますけど、なかなか——」彼女は言葉を切り、それから思い切ったように続けた。「学校で何かあったのか、あの子は何も言わないんです。あなた、五年二組の方ですよね。何かご存じないですか」
「……いえ、だからこそ調べているんです」
「そうですか」
彼女の声には諦めが滲んでいた。何年も、誰にも答えをもらえなかった人の声だった。
電話を切ってから、しばらく受話器を握ったまま動けなかった。
(三年前——橘美晴が消えたのと、同じ年だ)
偶然かもしれない。だが、偶然にしてはできすぎている。十二件かけ終えた時点で、まともに会話が成立したのはたった二人。その二人も口を揃えて「覚えていない」と言った。残りの十人は——連絡不能、精神的に会話できる状態ではない、あるいは拒絶。
三十四人のクラスのうち、少なくとも十人が意図的に過去を封印している。この偏りを偶然と呼ぶには、数字が重すぎた。
残るは、水無月綾乃だ。
阿倍野区立中央図書館は、駅前の複合文化施設の三階にあった。十一月の午前中、館内は静かで、新聞を広げる老人が数人、受験勉強らしき学生が二階の学習室に数人いるだけ。紙と埃と、床に塗られたワックスの微かな匂い——どこの公立図書館にもある、あの独特の匂い。
カウンターには二人の司書がいた。年配の女性と、若い方——彼女が綾乃だった。
小柄で、髪は肩のあたりでまっすぐに切り揃えられている。黒縁の眼鏡。その奥の目は伏し目がちで、利用者に本を手渡す時以外はほとんど手元の返却本から視線を上げない。声は小さいが、迷惑そうな印象は不思議となかった——むしろ、誰にも気づかれないことを望んでいるかのような、そんな空気の身のまとわせ方をしていた。
彼女の手元に目をやると、返却本の分類番号を確認する指の動きが異常に速い。十年分の経験が染みついた手つき——日本十進分類法のどの数字がどの棚かを、身体が覚えている司書の動きだ。
「すみません」
俺が声をかけると、彼女はびくっと肩を震わせた。単なる驚きを超えた反応だった。
「——はい」
「調べものをしていまして。地域の小学校の卒業アルバムを探しているんですが」
「当館では個人情報を含む資料の所蔵はしておりません」
早口で、まるで用意していた答えを読み上げるような口調だった。
「では——十年前の桜台小学校について、何かご存じありませんか。五年二組の——」
綾乃の手が止まった。バーコードリーダーを握った右手と、返却本を支えていた左手——両方が空中で一瞬硬直した。それから彼女はゆっくりと顔を上げ、初めて俺の目を正面から見た。眼鏡のレンズ越しの瞳が、かすかに揺れている。
(この人は、間違いなく知っている)
「……どちらさまでしょうか」
声は先ほどより低く、警戒をあらわにした響きに変わっていた。
「高橋と申します。三年前と先週、サンライトハイツで起きた失踪事件のことを調べています。橘美晴さんと野口紗英さんについて、少しだけお話を——」
「お引き取りください」
綾乃はバーコードリーダーをカウンターに置いた。プラスチックが金属の台に当たる鋭い音が、静かな図書館の空気を裂いた。
「私は何も知りません。覚えていません。本当に——何も」
最後の「何も」には、自分に言い聞かせるような響きがあった。
「水無月さん、同級生の何人かに連絡を取りました。全員が同じことを言います。『覚えていない』と。でもあなたは——」
「お願いです」
綾乃は声を潜めた。周囲の利用者に聞かれないよう、ほとんど囁くような音量だった。
「もう、やめてください。あのクラスのことは——掘り返さないで」
彼女はそれだけ言うと、くるりと背を向け、事務室のドアを閉めた。閉まる直前、ガラス越しに見えた彼女の横顔は、十年前の卒業アルバムに写っていた十歳の少女の面影を、かすかに残していた。
その夜。帰宅して部屋の鍵を開けた瞬間、あるべきでないものに気づいた。
ワンルームのアパートのドアの下に、白い封筒が差し込まれている。郵便受けではなく部屋のドアの隙間から——つまり誰かが直接、この三階の廊下まで来た。郵便物はいつも一階の集合郵便受けに入っている。チラシの類いはそもそもここまで届かない。
封筒を裏返す。差出人の記載はない。中身は一枚の便箋——罫線のない白い紙の中央に、たった一行だけが印字されていた。
『もう関わるな』
フォントは游明朝。サイズは十二ポイント。家庭用のインクジェットプリンターで出力したことがにじみ具合からわかる。封筒も便箋も、百円ショップで誰でも買える無地のもの。
(筆跡がない。指紋も期待できない。差出人不明の郵便物は、開封した時点で物的証拠としての価値が半減する——)
頭の片隅で、元記者の知識が自動的に動き始めている。だが、それとは別の場所で、背筋に冷たい感触が走った。
(この部屋の場所を知っている。俺の動きを把握している)
通話記録が漏れているのか、それとも誰かが尾行しているのか——どちらにせよ、俺の調査は相手に察知されている。
手紙を机の上に置き、しばらく眺めた。万年筆を取り出し、手帳の新しいページを開く。『匿名の脅迫状——十一月八日、自宅ドア下に投函。調査への関与を警告。』
万年筆のインクが紙に滲みるのを見つめながら、思考を整理する。匿名の脅迫が来たということは、調査の方向性が正しい証拠だ。何も知らない人間を脅す理由はない。誰かが——おそらく、十年前のあの教室で起きたことを知っている誰かが——俺に手を引かせたい。
三日後。俺はもう一度、中央図書館を訪れた。
綾乃はいなかった。代わりにカウンターに立っていたのは、名札に『司書主任・田村』と書かれた四十代半ばの女性だった。綾乃と違って愛想がよく、声も大きい。
「水無月さんは本日お休みです。あら、綾乃さんをお探しですか」
「はい、先日調べものを手伝っていただいたので、お礼をと思って。毎週この曜日がお休みなんですか」
「いいえ」田村は首を横に振った。「彼女、年に一度だけ、特定の日にお休みを取るんです。もう十年ほど欠かさず。理由は言わないんですけど、誰にでもそういう日ってあるじゃないですか——命日とか」
俺はペンを握る指に力を込めた。
「……いつですか、その日は」
「ええと、確か——今週の金曜日です。十一月十五日」
血液が足の先から引いていく感覚があった。
「ありがとうございます」
図書館を出るなり、手帳を開く。橘美晴の行動記録のページをめくり、日付を指でなぞる。
十一月十五日。三年前、橘美晴がサンライトハイツのエレベーターで消えた日。そして——十年前から綾乃が毎年欠かさず休んでいる日。
同じ日付。
綾乃は知っている。十年前の十一月十五日に、あの教室で何があったのかを。美晴が消えた日が、偶然ではなく、十年前のその日に繋がる何かだったことを——彼女は十年間、一人で抱え続けている。
手帳を閉じ、スマホを取り出す。十一月十五日は、あと二日後だ。
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました。
『七階のエレベーター』は、人間の創作とAIの力を組み合わせながら制作した作品です。
物語の構想や登場人物、ストーリーの調整を重ねながら、一つの作品として形にしました。
もし少しでも楽しんでいただけたなら、とても嬉しく思います。
また、本作の制作にはAI創作プラットフォーム「MoeGen」を活用しています。
物語や漫画を作ることに興味のある方は、ぜひ一度お試しください。
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最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。




