第3章 母の執念
「七階へ行った者は帰ってこない」
そんな噂から始まる物語です。
失踪した少女。
消された記録。
そして、存在しないはずの三十五人目。
真相は最後に明かされます。
橘美紗子の住所は、サンライトハイツから地下鉄で三駅の住宅街にあった。
十一月の冷え込みが本格化する前の、中途半端な陽気の午前中。俺は駅前の花屋で白い菊の小束を買い、地図アプリを頼りに細い路地を歩いた。失踪事件の遺族を訪ねるのに花——あまりにも型通りだと自分でも思う。だが、手ぶらよりはましだろう。
建物は築二十年ほどの二階建てアパートだった。一階の端部屋。表札は古びて角がめくれているが、『橘』の文字だけが新しい墨でなぞり直してあった。毎年欠かさず——そういう筆跡だった。
インターホンを押す。応答なし。もう一度——かすかに、室内でスリッパが床を擦る音がした。十秒ほど待って、ドアがゆっくりと開く。
「……どちらさまでしょう」
現れた女性は、年齢よりずっと老けて見えた。資料では四十八歳だが、目元の深い皺と頬のこけかたで六十近くに見える。白髪交じりの髪は適当に一つに束ねられ、毛先だけが櫛を通していないように絡まっていた。カーディガンのボタンはひとつ掛け違えている。
(この人は、三年前からずっと——)
「高橋と申します。元新聞記者です。三年前の美晴さんのことで、お話を伺えませんか」
美紗子の濁った瞳に、かすかな光が戻った。期待ではない——長いあいだ誰も訪ねて来なかった場所に、三年ぶりに足音がした時の警戒だった。
彼女は何も言わず、ドアを大きく開けた。招き入れられた室内に一歩踏み込んだ俺は、次の瞬間、息を呑んだ。
六畳ほどの和室。床も壁も天井も——見える限りすべての面が、写真とメモと新聞記事の切り抜きで埋め尽くされていた。
橘美晴の写真。小学校の入学式。中学校の制服姿。修学旅行の集合写真で端に立つ少女。七五三の着物。ピアノの発表会。体育祭のリレーでバトンを握る姿。どれも注意深く日付ごとに分類され、百円ショップの透明なポケットファイルに一枚ずつ収められている。
写真の合間には、手書きのメモが無数に貼られていた。三年前の十一月十五日の天気。当日の美晴の行動記録——朝六時四十分起床、七時十五分登校、十六時二十分下校、コンビニでおにぎり購入、十七時四十三分サンライトハイツ入館——。学校の友人リスト。クラスメイトの氏名と連絡先。聞き込み調査の結果を走り書きした付箋。
壁だけではない。床にはダンボール箱が七つ積まれ、それぞれに通話記録、防犯カメラの解析依頼書控え、警察への提出文書のコピーが無造作に詰め込まれていた。
「——座ってください」
美紗子は部屋の隅にある座布団を指した。座布団の上には、美晴が中学一年の時に書いた読書感想文のコピーが置かれている。『私の夢』——小さな文字で綴られた作文の最後に、こうあった。『お母さんを楽させてあげたい』。
俺はその紙をそっと脇に避け、正座した。手足の置き場に困る——というより、ここに座っているだけで自分という存在がこの部屋の空気を犯しているような、そんな居心地の悪さだった。
「美晴が消えた日から、私、毎日これを作ってるんです」
美紗子は壁を指さした。声には抑揚がない。泣くでも、怒るでもない——ただ事実を確認する調子。
「警察は何もしてくれませんでした。捜査は三ヶ月で打ち切り。防犯カメラに映ってるのに、なぜ見つからないのかと聞いたら、『映像には限界があります』の一点張り。それで私、自分で調べることにしたんです。仕事を辞めて。朝から晩まで。夫も——あの人は出て行きました。美晴がいなくなって一年で」
彼女はダンボール箱の一つを引き寄せ、中から一枚の紙を取り出した。
「美晴の携帯電話の通話記録です。通信会社に開示請求して、三年がかりで出させたんです」
テーブルに置かれた紙を覗き込む。十一月十五日の午後四時五十二分から午後五時十一分までの間に、美晴がかけた三件の電話の記録が印字されていた。
「この三件目です」
美紗子の指が、一つの番号を押さえた。通話時間は四分間。午後五時十一分——美晴がサンライトハイツに入館する、ちょうど三十二分前の時刻だ。
「この番号の持ち主は」
「調べました」美紗子は別のファイルを開いた。「野口紗英さん。美晴の同級生で——」
「同級生?」
「はい。同じ桜台小学校で、五年生の時、同じクラスだった子です」
美紗子は淡々と続けた。
「私、紗英さんにも連絡を取ろうとしたんです。でも電話は繋がらなくて。ご両親に手紙を出しても返事はなくて——」
指がカーディガンの裾をぎゅっと握った。指先が白くなっている。
「——それで、紗英さんが先週、サンライトハイツで消えたって聞いて」
声が初めてかすかに震えた。三年間の沈黙と執念を支えてきた堤防が、ここに来てひび割れた——そんな震え方だった。
「だから、あなたは美晴だけじゃないって——あの子だけが消えたんじゃないって——そう信じていいんですよね」
俺はすぐに答えられなかった。
(この人は、自分が正気でいるために、新しい失踪を「証拠」として求めている)
美晴の失踪が単独の不可解な事故ではなく、連続する事件の一部であること——それが彼女にとっては救いだった。娘を奪ったのが理不尽な偶然ではなく、特定の誰かの意志による犯罪であれば、敵の顔が見える。戦える。
「……まだ断定はできません」俺は慎重に言葉を選んだ。「でも、関連性は高いと思います。少なくとも、美晴さんと紗英さんの失踪は偶然とは思えない」
「調べてくださいますか」
美紗子は深々と頭を下げた。その小さな背中を見ていると、鼓膜の奥で栓をされていた何かが外れる感覚——鼓動が加速し、息が浅くなる。身体が先に、変化を告げていた。
(これは——)
手帳を取り出し、万年筆を握る。ペン先からインクが紙の上に滲み出るのを待つ一瞬の間で、八年ぶりに記者が目を覚ますのを感じた。
「調べます。必ず」
美紗子は顔を上げなかった。肩が小さく揺れていて、それが静かに泣いているのだと気づくのに数秒かかった。涙声ひとつ立てない、三年ぶりの涙だった。
俺は彼女から資料のコピーを受け取り、カバンにしまった。野口紗英の電話番号。通話記録の全データ。美晴の学校の友人リスト——三十四人の名前が並んでいる。五年二組。桜台小学校。
立ち上がる時、ふと窓辺の小さな仏壇に目が行った。線香の灰が山のように積もっている。新しい花が供えられていた——駅前の花屋で買ったのと同じ白い菊だ。美紗子は毎日、花を買っているのだろう。娘のいないこの部屋で。
「橘さん」玄関で振り返った。「一つだけ。美晴さんは——どんな子でしたか」
美紗子は初めて、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「真面目で、優しい子でした。クラス委員もしてました。誰かの面倒を見るのが好きで——小学校の時も、ひとりぼっちの子がいると絶対に声をかけに行くような子で」
「クラス委員、ですか」
「はい。五年生の時、五年二組の学級委員長でした」
俺は手帳に書き足した。——橘美晴、五年二組、学級委員長——その事実が後に事件の核心に触れる鍵になることを、その時はまだ知らなかった。
「ありがとうございます。また連絡します」
外に出ると、昼前の日差しが眩しかった。路地の向こうから、小学生の集団下校の列が黄色い帽子を揺らしながら歩いてくる。その中に、生きていれば二十四歳になるはずだった少女の姿を探してしまう——三年かけて美紗子に染みついた視線の癖だった。
俺はアパートを背に歩き出しながら、スマホで検索をかけた。——野口紗英、桜台小学校、五年二組。
ブラウザに、ある掲示板の書き込みが表示された。半年前の投稿で、タイトルは『桜台小5-2、覚えてる人いませんか』。本文は短い。「十年前の同窓会を企画したいんですが、どうしても連絡が取れない同級生が何人かいます」
スレッドは数件の返信で止まっていたが、最後の書き込みだけが妙に引っかかった。
『あのクラスのことは、もう思い出さない方がいい』
投稿者名は空白。書き込み時刻は早朝四時十二分。
俺は足を止め、手帳を開いた。三十四人の名前が並ぶリスト——そこに、新しく加えた二つ。橘美晴、野口紗英。そして今、このリストに載っている他の三十二人はどこにいるのか。
(五年二組——十年前のあの教室で、いったい何があった)
十一月の風が路地を抜けた。白い菊の花びらが一枚、誰もいないアスファルトの上を転がっていく。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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