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七階のエレベーター  作者: リンコ


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第2章 三年後の沈黙

気づけば、誰もいなくなっていた。


これは「七階のエレベーター」にまつわる奇妙な失踪事件を追う物語です。


少しずつ明かされる真実を、最後まで見届けていただければ幸いです。

エレベーターの階数表示が消えた後も、俺はしばらくエントランスに立ち尽くしていた。


十月の夜気が、開け放たれた自動ドアから流れ込んでくる。壁の防犯カメラは相変わらず無表情な黒い瞳でエレベーターを見下ろしている。さっきのランプが誤作動だったのか、それとも別の何かだったのか——確かめる術は今の俺にはなかった。


(ともかく、中に入るしかない)


エントランスを抜け、エレベーターホールへ足を踏み入れる。蛍光灯の白い光が磨り減った石床を照らし、壁の掲示板には色褪せた回覧板と、三年前の日付が入った管理組合の議事録が残されたままだった。剥がす者がいなかったのだろう。


階段で二階へ上がる。廊下は予想より狭く、両側のドアの前には新聞受けと傘立てが規則正しく並んでいる。どの部屋にも人の気配はある——テレビの音、換気扇の唸り、かすかな話し声。だが、インターホンを押しても応答はほとんどなかった。


二〇一号室。無反応。


二〇二号室。チェーンをかけたまま五センチ開いた隙間から、七十代とおぼしき女性が片目だけを覗かせた。


「なんや、あんた」


「夜分にすみません。三年前にこちらであった失踪事件のことで——」


「知らん」


ドアはそれ以上開かなかった。閉まる直前に見えた室内には、仏壇の線香の赤い光だけが揺れていた。


二〇三号室から二〇五号室までは、呼び鈴を押しても物音ひとつしなかった。こういうマンションでは、知らない訪問者に対して住人は驚くほど統一された反応を示す。沈黙——それが最も安全な防御だと、彼らは経験で学んでいる。


三階へ。フロアの突き当たりの窓から、向かいの雑居ビルのネオンが廊下の壁に赤い水玉模様を落としている。


三〇三号室の前で足を止める。ドアポストに挟まれた新聞——昨日の日付のままだった。郵便受けにはさらに二通の封筒が口を開けたまま突き刺さっている。住民票は抜いていないが、実質もうここに住んでいない——そんな印象だった。


ふと、背後の三〇四号室のドアが開く気配がした。


「お兄さん、さっきから何してはるん」


振り返ると、七十代前半に見える男が立っていた。白髪混じりの坊主頭に、よれよれのカーディガン。手には灰皿代わりの空き缶を持ち、煙草のヤニで人差し指と中指の先が黄色く染まっている。


「すみません、ちょっとお聞きしたいことが」


「あんた、新聞記者か」


俺は少し迷ってから、正直に答えた。


「元です。今はフリーで」


「ふうん」男は缶に煙草を押しつけ、煙を天井に向かって吐き出した。「三年前のことやろ」



「はい」


「やめとき。あれはもう終わった話や」


「でも、最近また——」


「知っとる。せやからやめとき言うとる」


男の声に、奇妙な切実さが滲んだ。拒絶ではない——警告に近い響き。何かを知っている人間の口調というより、この先に踏み込むなと忠告する、加害者でも被害者でもない第三者の声だった。


「何か、知ってるんですか」


男は答えず、缶の中で吸い殻をぐりぐりと押し潰した。


「七階のことは、誰も話したがらへんよ」


それだけ言うと、ドアを閉めた。


翌朝、俺は管理人が常駐しているという一階の事務所を訪れた。ガラス戸の「営業時間 10:00〜17:00」の紙は色褪せて読みにくい。三度ノックしても応答はなく、四度目でようやく奥からスリッパを引きずる音が聞こえてきた。


「あいよお」


現れたのは六十代の小柄な男だった。薄くなった頭髪を無理に横に流し、ポロシャツの襟は汗染みで黄ばんでいる。胸の名札には『管理人・矢野』。


「お世話になります。高橋と申します。先週、こちらで中学生の娘さんが——」


矢野は最後まで聞かず、右手をひらひらと振った。


「ああ、その話か。警察にも言うたけど、うちは一切関わってまへん。三年前のあれも今回のも、マンションに問題があったわけやない。エレベーターは法定点検も通っとるし」


早口だった。何度も同じ説明を繰り返してきた者の喋り方——実際そうなのだろう。


「防犯カメラの映像を見せていただけませんか」


矢野の目が、ほんの一瞬だけ泳いだ。


「警察にはもう提出してます。個人の方にはお見せできまへん」


「三年前の映像も、ですか」


「三年前のは——」矢野は言葉を切り、ポケットからハンカチを出して額を拭いた。十月だというのに、うっすらと汗が浮かんでいる。「もう、ないんですわ。保存期間が過ぎてもうて」


(三年前の映像を、保存期間切れで消去?)


未解決の失踪事件の防犯カメラ映像を、管理会社が自主的に消去するはずがない。警察が押収したならともかく、民事のデータを、事件が迷宮入りのままで破棄する——ありえない話ではないが、記者の勘がそこに違和感を覚えた。


「わかりました。お時間ありがとうございます」


事務所を出た俺はエントランスのベンチに腰を下ろし、手帳を開いた。万年筆を取り出す。


——住人、全員が口を閉ざす

——二〇二号室の老女、ドアを五センチのみ。室内に仏壇

——三〇三号室、二日分の新聞+未開封の郵便(空き部屋の可能性)

——三〇四号室の男、「やめとき」は拒絶ではなく警告。噂話の住人とは違う、何かを知っている口調

——管理人・矢野、カメラ映像の質問に動揺。三年前の映像「保存期間切れ」は嘘の可能性大


ペン先を止め、最後の一行を読み返す。


(嘘——つまり、映像はまだ存在する)


問題は、それをどう手に入れるかだ。警察に協力は仰げない。元記者のフリーライターでは、ただの詮索好きな部外者に過ぎない。


記者時代のコネ——頭の中で名刺帳をめくる。警察担当だった頃の繋がりは、会社を辞めた時点でほぼ切れた。だが、一人だけ。


スマホを取り出し、アドレス帳をスクロールする。『神崎』——着信履歴の最後は二年以上前だ。指が一瞬止まる。


発信ボタンを押す。三コールで、嗄れた声が出た。


「——神崎です」


「高橋です。ご無沙汰してます」


受話器の向こうで二秒ほどの沈黙。それから、低い笑い声。


「生きとったんか。新聞辞めたって聞いた時は、自殺でもしたんやないかと思うとったで」


「まだくたばってませんよ」


「で、なんや。金か」


「情報です。サンライトハイツの失踪事件——」


「——やめとけ」


三度目だ。昨日から三人目——喫茶店の女、三〇四号室の男、そして今は神崎。全員が同じ言葉を口にする。


「サンライトハイツか」神崎は低く唸るような声で続けた。「三年前、俺はあの事件の捜査におった。初動の担当や」


「何があったんです」


「何もなかった——それが問題や」


神崎の声の質が変わった。さっきの軽い調子が消え、抑揚を殺した報告調になる。


「防犯カメラには確かに映っとった。少女が乗って、七階を押して、扉が閉まって。到着時には誰もおらん。映像は俺も見た。改竄の痕跡はなかった——少なくともウチの鑑識の見立てでは」


「でも、何か引っかかった」


「ああ」神崎は短く答えた。「捜査が急に打ち切られた。上からの指示や。理由は教えられへんかった」


「誰かが圧力を——」


「電話で言うな」


神崎の声が急に鋭くなった。受話器の向こうで紙をめくる音——誰かが近くにいるのか。


「高橋——お前、まだあの万年筆使うとるんか」


突然の問いに、俺は手に持ったペンを見下ろした。


「ええ、まあ」


「そうか」神崎は小さく息を吐いた。「お前の親父さんのこと、俺は知っとる。だから言う——本気でやるなら証拠を固めろ。噂話や伝聞やのうて、誰にも消せん形の証拠を」


「——防犯カメラの映像ですね」


「俺は何も言うとらん」


通話が切れた。


俺は手帳に新しい一行を書き加えた。——神崎、三年前の初動捜査担当。上からの圧力で捜査打ち切り。映像は本物だが、何かが見落とされている?


(誰にも消せない形の証拠)


データが消去されても、一度人間の目に触れた情報は必ず痕跡を残す。記憶という、最も脆くて最も強靱な証拠が——神崎の目と、そしてもう一人。映像を見たはずの管理人の矢野だ。


俺は立ち上がり、もう一度管理人室をノックした。


「矢野さん、もうひとつだけ」


「何度も言うてる通り——」


「三年前の映像について、嘘をついてますよね」


矢野の顔から血の気が引いていくのが、蛍光灯の下でもはっきり見て取れた。ハンカチを握る指が、わずかに震えている。


「な、なにを——」


「保存期間切れの映像なら、動揺する必要はない。警察に提出しただけの映像なら、見せられないと即答すればいい。でもあなたは、三年前の映像の話が出た瞬間、あきらかに狼狽えた」


矢野は唇を舐め、何かを言いかけてやめた。


「消してないんでしょ。まだ持ってる」



矢野は目を閉じた。長いため息が、狭い事務所の中に落ちる。


「——なんで、そんなことがわかる」


「記者を八年やってました。嘘をつく人間の顔は、嫌というほど見てきました」


沈黙が十秒ほど続いた。壁の時計の秒針だけが、かち、かち、と響いている。


それから矢野は震える手で机の引き出しを開け、一枚のDVD-Rを取り出した。ケースには油性ペンで『2018.11.15 防犯カメラ 1F-7F』。


「これ、警察に提出したのと同じデータです。コピーを個人的に残してました。こう言うたらなんですが——三年前からずっと、誰かに渡すべきやないかと思うとった」


「なぜ今まで」


「怖かったんです。このマンションには変な噂がつきまとうとる。七階の住人はみんな引っ越して、今は全部空き部屋や。大家も表に出たがらへん。そんな中で俺みたいなもんが余計なことしたら——」


言葉の続きはなかった。言わなくてもわかる——首だ。小さな管理人の世界で、彼は自分の立場を必死に守ってきたのだ。


「ありがとうございます。この映像、必ず役に立てます」


俺はDVDを受け取り、一礼して事務所を後にした。


帰宅してすぐ、パソコンにディスクを挿入する。再生時間は十一分四十三秒。早送りで全体を確認してから、等倍速で頭から見直す。


橘美晴がエントランスに現れ、エレベーターに乗り、七階を押す——ここまでは、ネットで語られてきた通りの映像だ。だが、俺は気づいた。七分二十八秒の地点で、画面全体にごくわずかなノイズが走っている。一秒にも満たない肉眼では捉えきれない乱れ。一般の視聴者なら見逃す。だが、映像編集の経験がある人間なら——キーフレームの置き換えか、短いカットの差し替えだと判断できる。


映像は、改竄されていた。


高度な手法だ。警察の鑑識が見逃したのも無理はない——だが、神崎だけは気づいた。彼の「何かが引っかかった」という言葉の意味が、今ならわかる。


(誰が、何のために)


エレベーターの中で起きたことを隠すために一部を差し替えたのか——それとも、全く別の映像に入れ替えられているのか。


俺は映像を一時停止し、手帳を開いた。橘美晴の失踪は都市伝説でも呪いでもない。この改竄は、現実の人間の手による、意図的で計画的な隠蔽工作だ。


(だとしたら、橘美晴の母親に会わなければならない)


手帳に書き込む——橘美紗子、阿倍野区在住。娘の失踪後も引っ越さず、同じ住所で暮らしている、とネットの記事にあった。


パソコンを閉じ、万年筆をペンケースに戻した。窓の外では十月の夜が深まっている。街灯の下を、最終バスが一台、静かに通り過ぎていった。


ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました。


『七階のエレベーター』は、人間の創作とAIの力を組み合わせながら制作した作品です。

物語の構想や登場人物、ストーリーの調整を重ねながら、一つの作品として形にしました。

もし少しでも楽しんでいただけたなら、とても嬉しく思います。


また、本作の制作にはAI創作プラットフォーム「MoeGen」を活用しています。

物語や漫画を作ることに興味のある方は、ぜひ一度お試しください。

https://www.moegen.ai/

最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

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