第16章 地下への扉
五十嵐真由が襲撃されてから、三日が経った。
十二月二十五日。街はクリスマスのイルミネーションに彩られ、浮かれた人々で駅前が溢れかえっていた。カップル、家族連れ、酔っ払いのサラリーマン——誰もが年の瀬の喧騒に身を任せている。だが俺の部屋だけは、十一月から時が止まったままだった。
真由はまだ集中治療室で眠り続けている。綾乃は図書館を休職し、実家のある滋賀へ一時的に身を寄せた。環は退院して警察の保護下にある。五十嵐の資料はすべて手帳に写し終えたが——どう使えばいいのか、その道筋が見えなかった。
高柳家の名前は、この街では法律より重い。証拠をどこに持ち込んでも、最終的に高柳家の息のかかった誰かの机の上で握りつぶされる——古川が言った「真実より力関係が先に決着をつける」が、この街の現実だった。
アパートの郵便受けに、一通の茶封筒が入っていたのは、その日の昼過ぎだ。差出人は書かれていない。部屋に戻って開封すると、中から一枚のメモ用紙と——サンライトハイツの「地下区画立ち入り許可証」のコピーが出てきた。許可証の名義人は『大阪市教育委員会』。
メモ用紙には鉛筆で一言だけ書かれていた。
『地下を見ろ。B2。——神崎』
俺はすぐに神崎の番号を押した。コール一回で出た。
「どういうことですか」
「そのまんまや」神崎の声はいつもより低く、緊迫感を帯びていた。「環が言うとったやろ。『全部七階に繋がってる』と。お前も五十嵐もずっとエレベーターの七階を見とったが——あのマンションにはもう一つ隠された場所がある。建築図面をよおく見てみい。エレベーターシャフトはB2まで伸びとる」
「地下に何が——」
「ワシも知らん。だが、あそこには朝比奈が十年間誰にも見せんと守り続けてきたもんがあるはずや。行って確かめい。今日はクリスマスで管理人すらおらん。お前しか——おらんのや」
俺はコートを羽織り、手帳とペンと——それから真由の付箋をポケットに入れて外に出た。
午後三時のサンライトハイツは、まるで廃墟のように静かだった。エントランスのガラス戸には鍵がかかっていたが、神崎が手配した許可証で通用口の電子ロックを解除し、中に滑り込む。エレベーターホールは誰もおらず、エレベーターのランプは一階で停止したままだった。非常階段で下へ降りる。
一階。B1——配管とメーターが並ぶ機械室。さらに下へ。B2。
地下二階の鉄製の扉には南京錠がかかっていた。写真解析で覚えた観察力で鍵穴を見ると——新しい。誰かが最近ここを出入りしている。神崎がくれた許可証のキーコードを入力すると、ロックが外れた。
かび臭い冷たい空気が一気に流れ出し、蛍光灯の紐を引くと、十畳ほどの空間がぼんやりと浮かび上がった。四方の壁は剥き出しのコンクリートで、床には古い段ボール箱や壊れたパイプ椅子が散乱している。だが、その奥に——壁一面に貼られた模造紙と、無数の資料の束があった。
俺は息を呑んだ。
それは橘美紗子の自宅で見た時と同じ光景——いや、もっと古く、もっと執拗で、二十年分の執念が詰まった調査記録だった。
三十四人のクラス名簿。優斗の手描きの似顔絵。十数年前の新聞記事の切り抜き。警察内部の捜査資料——本来なら一般人が決して目にすることのできないはずのものだ。給食費の横領記録。教材費の不正請求。市議会議員への賄賂の領収書。高柳家の関連企業と教育委員会の間で交わされた不自然な契約書の数々。
そして、すべての文書が——朝比奈悟の名前と、高柳家の名前に、赤い線で結びつけられていた。
(誰が、こんなものを——二十年も)
壁の隅に、一枚の写真が画鋲で留められていた。色褪せた集合写真——二十年前の桜台小学校の校庭で、スーツ姿の中年男性が児童たちと記念撮影をしている。男性の顔——間違いない。神崎邦彦だ。二十年前の彼は、まだ現役の刑事だった。
写真をめくると、裏にたった一行の走り書き。
『俺も後悔したくない。——神崎邦彦』
鼓動が速くなった。神崎は言っていた。「優斗の事件の捜査におった」と——初動の担当だった、と。彼は二十年前から、この事件を知っていた。知っていたからこそ、捜査を外され、窓際族に追いやられ、二十年間警察の片隅で静かに証拠を積み重ねてきたのだ。
俺が調べ始めたのは、つい一ヶ月半前だ。神崎は二十年だ。
その時——背後で、階段を降りてくる足音がした。
振り返ると、地下区画の入り口に一人の男が立っていた。蛍光灯を背に受け、顔は影になっている。だが、そのシルエットと、空気を変えるような異様な存在感はすぐにわかった。
「——高橋さん、でしたね」
声がした瞬間、背筋を冷たい電流が走った。先月、市役所の執務室で聞いたのと同じ声——ただ、今はあの教育的な微笑みの仮面が完全に剥がれ落ちている。
「朝比奈——悟」
「ご明察です」彼はゆっくりと階段を下りてきた。慣れた足取り——この場所が彼の庭であることは明らかだった。右手に何か握っている。蛍光灯の光を鈍く反射する金属の筒——スタンガンだ。「残念ですよ。本当に、残念だ。あなたさえ現れなければ、すべてはうまくいっていた」
「橘美晴も、野口紗英も——お前が消したのか」
「あの子たちは、危険でした」朝比奈はまるで授業で生徒を諭すような口調で言った。「美晴は——罪の意識に耐えきれず、誰かに話そうとしていました。担任として、あれほど口を酸っぱくして言ったのに。紗英は美晴に引きずられて不安定になっていた。黒崎環は——十年も引きこもっていながら、まだ記憶を手放していなかった。みんな、仕方のないことです。より大きなものを守るためには——」
「より大きなもの。高柳家か」
朝比奈の目が一瞬だけ見開かれ、それからすぐに、あの薄い笑みに戻った。しかし、今度は完全に別の笑みだった——捕食者が、獲物が罠にかかったのを確認した時の笑み。
「あなたは、知りすぎましたね」
彼はスタンガンを構え、一歩踏み出した——
その時、階段の上から複数の足音が雪崩れ込んできた。軍靴の硬い響き——何人もが同時に駆け下りてくる音。そして、よく通る嗄れた声が地下区画に轟いた。
「——動くな! 警察だ!」
先頭に立って階段を駆け下りてきたのは、見覚えのある白髪の巨漢——神崎邦彦だった。古いトレンチコートの下に、ダークスーツ。手には拳銃——退役した刑事の私物だろう。彼の背後には制服の警察官が三人、無線を手に突入してきた。
「神崎さん——なぜ」
「遅くなってすまん」神崎は肩で息をしながら、しかし鋭い目で朝比奈を睨みつけている。「この日のために、ワシは二十年かけて証拠を集めてきた。今日まで動けんかったのは——ワシ一人では足りんかったからや。警察の内部にも、高柳家の息がかかった人間が腐るほどおる。せやけど——お前が外からこれだけの騒ぎを起こしてくれたおかげで、連中ももう黙ってられんようになった。府警本部にも、高柳家と無関係な捜査官が動き始めた——最後のピースが揃うたんや」
朝比奈は、ゆっくりとスタンガンを床に落とした。金属がコンクリートに当たる冷たい音だけが、地下区画に響く。顔から笑みは完全に消え、そこにいたのは——ただの、小さな、追い詰められた中年の男だった。
「朝比奈悟。お前を——殺人、死体遺棄、証拠隠滅、放火未遂、傷害——以上の容疑で逮捕する」
神崎の隣に立った制服の警察官が、朝比奈の両手に手錠をかけた。三十四人の児童の前で内申書をちらつかせて口止めをした男が、今度は自分が——十一歳の子供たちにやったのと同じように——警察に腕を掴まれている。
朝比奈が連行されていく背中を見送りながら、神崎は小さく息を吐いた。
「——終わったんやな」
「いえ」俺は壁一面の資料を見渡しながら言った。「まだです。高柳家が残ってる。それに——優斗の遺体も、まだ見つかっていない」
「優斗の遺体は——」神崎は壁の資料を一枚、指さした。「そこや。環の未送信メッセージにあったやろ。『全部七階に繋がってる』——地下から真上に、エレベーターシャフトが伸びとる。その途中——この資料によると——」
彼は一枚の紙を壁から剥がして俺に渡した。二十年近く前の手書きの図面——このマンションが建設される前の地盤調査の記録だった。図面の下部に、ごく小さな文字で走り書きがある。
『旧校庭地下——遺体埋設の可能性あり。確認要。——K』
「K——神崎さん?」
「ああ。二十年前にワシが書いたメモや。このマンションが建つ前——ここは桜台小学校の第二校庭やった。図面には記載されとらんが、地下には古い防空壕の跡があるらしい。優斗の遺体は——おそらくそこや」
「——見つけましょう」
俺は壁に向き直った。二十年分の資料が貼られた壁を背景に、神崎がうなずく。
手帳を取り出し、万年筆を握る。地下区画のかび臭い空気の中で、それだけがかすかに温かかった。




