第15章 真由の代償
十二月二十二日。午後十一時過ぎ。
携帯電話の着信音がアパートの暗い部屋に響き渡った。この一ヶ月半で、深夜の電話は二度目だ。一度目は神崎からの連絡——黒崎環のアパート放火を知らせる電話だった。二度目の今度は、画面に表示された番号が非通知だった。
「——高橋です」
「高橋修司さんですね」若い男の声。感情のこもらない事務的な口調だったが、その平板さがかえって嫌な予感を増幅させた。「大阪府警の者です。五十嵐真由さんが先ほど——」
受話器を握る手に力が入った。指の感覚が一瞬で失われる。
「どこで」
「阿倍野区の住宅街の路上です。午後十時半ごろ、帰宅途中に背後から襲撃を受けた模様です。通行人が倒れている彼女を発見し、救急搬送しました。現在、大阪市民病院の集中治療室で——」
「怪我の程度は」
警察官は一瞬、言い淀んだ。その一瞬の沈黙が何よりも雄弁だった。
「——頭部を強打しており、意識はありません。彼女の持ち物から身元を確認しました。緊急連絡先として高橋さんのお名前がメモに残されていて——」
それ以上は聞かずに電話を切った。コートを掴み、靴を履き、タクシーを拾うまで二分とかからなかった。十五分で大阪市民病院に着く。この病院に来るのは——環の時、優斗の母親の時、そして今——もう四度目だ。
十二月の深夜の病院は死んだように静かで、蛍光灯の冷たい白い光だけが廊下を照らしている。三階の集中治療室の前に警察官が二人、所在なさげに立っていた。
そのうちの一人——まだ二十代半ばの若い方——が俺に近づいてきた。
「高橋さんですか。五十嵐さんがお持ちだったバッグをお預かりしています。ご家族が到着されるまで——」
俺は黒いトートバッグを無言で受け取った。五十嵐がいつも肩にかけていたキャンバス地のバッグだ。角が擦り減り、取っ手の縫い目がほつれかけている——短い付き合いだったが、彼女がどれだけ長くこのバッグと共に取材を続けてきたかがわかる。
ファスナーを開ける。中には取材ノート、ペン数本、モバイルバッテリー、ハンカチ——そして彼女がここ数週間かけて一人で集め続けた資料の束があった。
朝比奈悟が教育課長に就任した経緯を示す市議会議事録のコピー。サンライトハイツの建設に関わる建築確認申請書の写し。高柳家が実質的に支配する関連企業と教育委員会の間の請負契約書——数字の羅列の中に、不正の痕跡がいくつも浮かび上がっていた。教育委員会の予算から高柳家の関連企業に流れている不自然な支出、朝比奈が関与したと思われる随意契約の記録——これらはすべて、五十嵐が新聞社のデータベースや公開情報だけでは入手できない内部文書だった。
(これだけの資料を——いつ、どうやって)
彼女は言っていた。「私は後悔したくないだけです」——三年前、入社したばかりの記者として橘美晴の失踪事件を取材しようとし、記事を握りつぶされた。その時に何もできなかった後悔を、彼女は三年間ずっと背負ってきた。そして、俺と出会う前から——彼女は一人でこの事件を追い続けていたのだ。
資料の束の一番上に、一枚の付箋が貼られていた。小さな黄色い紙に、五十嵐の角ばった几帳面な文字でこう書いてある。
『高橋さんへ。私は後悔したくないだけです。あなたもそうでしょ。』
手が震えた。指の震えが付箋にまで伝わり、黄色い紙がかすかに揺れる。この一ヶ月、五十嵐はいつも冷静で、ほとんど表情を変えず、ただ黙々と机に向かって資料を整理していた。時折見せる笑顔はどこか自嘲気味で——そういう人だった。だがこの小さな付箋には、彼女が三年間誰にも見せずに抱え続けてきた傷と、それを封じるための決意のすべてが滲んでいた。
集中治療室のドアが開き、白衣の医師が出てきた。
「——高橋さんですか」
「五十嵐の——真由さんの状態は」
「頭部に強い打撲を受けています。外傷性の脳内出血の可能性があり、今は投薬で経過観察中です。命に別状は——」医師は一瞬、言葉を選ぶように間を置いた。「今のところは、ありません。ただ、意識が戻る時期については——まだなんとも」
それ以上は聞けなかった。頭の中で、後悔と怒りと、そして何よりも——自分への激しい苛立ちが爆発しそうになっていた。
(俺が、彼女を守れなかった——)
知っていたはずだ。相手は高柳家だ。この街の権力そのものを牛耳る一族だ。口封じに放火までやる連中が、新聞記者一人に手を出さないはずがない——わかっていたのに、俺は彼女に「警護が必要です」と言うだけで、実際には何の手も打たなかった。
「彼女のバッグから出てきたものです」俺は警察官に資料の一部を見せた。「五十嵐記者は三年前からこの事件を追っていました。今回の襲撃は口封じの可能性が極めて高い。既に同じクラスの黒崎環という女性が放火で狙われています」
警察官は資料を一瞥し、難しい表情を浮かべた。
「——わかりました。捜査一課に伝えます。ただ——」
「ただ」
「このレベルの内容ですと——上からの指示が必要になります」
「上とは」
警察官は答えなかった。ちらりと同僚を見ただけで、それ以上は何も言わなかった。だが、その沈黙がすべてを物語っていた。高柳家——その名前は既に警察の上層部にまで届いている。いや、もっと正確に言えば——高柳家の方が警察より上にいるのだ。
病院の廊下のベンチに腰を下ろし、俺は五十嵐のバッグを両膝の上に置いた。中の資料を一枚ずつ取り出し、自分の手帳に挟み込んでいく。彼女が命を懸けて集めた証拠——これを無駄にするわけにはいかない。コピーはもうない。これが最後の原本だ。
最後に、あの小さな黄色い付箋をもう一度手に取った。
『——あなたもそうでしょ』
そうだ。俺も後悔したくない。一度は記者として真実を曲げ、人の道を外れた。今回は——絶対に、間違えない。
窓の外で、十二月の長い夜がようやく終わろうとしている。東の空がかすかに白み始め、病院の駐車場に停まった車の屋根に霜が降りているのが見えた。
俺は立ち上がり、集中治療室のドアの前で足を止めた。中からは人工呼吸器の規則的な音だけが漏れてくる。彼女はまだ——眠ったままだ。
「——真由さん。必ずやり遂げます。あなたの三年間と、この一ヶ月の努力を、絶対に無駄にしない。だから——」
声が詰まった。それ以上は言葉にならなかった。
「だから、戻ってきてください」
病院を出て、西へと歩き出す。朝の空気は刺すように冷たく、吐く息だけが白く浮かんでは消えていく。手帳を開き、かじかんだ指で万年筆を握る。インクが冬の寒さでかすかに粘り、紙の上で掠れた。
『十二月二十二日——五十嵐真由、帰宅途中に背後から襲撃され重傷。頭部打撲、意識不明。バッグから朝比奈の不正経理の証拠、高柳家関連企業との不自然な契約文書を発見。三年分の後悔と決意が滲む付箋——「私は後悔したくないだけです。あなたもそうでしょ」。彼女が命を懸けたこの証拠を、必ず報わせる。絶対に。』
手帳を閉じ、歩き続ける。十二月の朝日が、ビルの谷間から差し込み始めていた。




