第14章 見えない影
反撃は、思ったより早く、そして組織的に始まった。
十二月十九日、午後。五十嵐真由が出社すると、彼女のデスクの上に一通の社内メモが置かれていた。差出人は編集局長。封筒の裏には『親展』の朱印。開封すると、中にはたった三行の文章があった。
『五十嵐記者の「サンライトハイツ連続失踪事件」に関する取材は本日付で凍結とする。理由は追って説明するが当面は他部署の応援に回ること。——編集局長 古川誠』
五十嵐はメモを掴んで編集局長室に直行した。ノックもせずにドアを開けると、古川は机に向かったまま顔を上げなかった。窓の外では十二月の西日が傾き、部屋全体を橙の光が包んでいる。
「どういうことですか。この取材は編集局長自らが許可した案件です。三週間かけて証言を集め、物的証拠も——」
「社の方針や」古川は冷たく言い放った。書類から目を離さない。「お前が集めた資料も、今日中に編集局に提出しろ。バックアップも全部消去。個人端末のデータも削除や」
「理由を聞いてます」
古川は初めて顔を上げた。その目は、かつて俺に向けたのと同じ目だった——組織の論理を優先し、真実よりも自分の立場を守ることを選んだ男の目。
「朝比奈悟は大阪市の教育課長や。市政の要職の一人やぞ。その人間を——証拠もろくにないまま記事にしようというのか。名誉毀損で訴えられたら、会社の存続に関わる」
「証拠ならあります。写真の日付、目撃証言、行政文書の矛盾——渡した資料にすべて入ってます」
「あんなもんは証拠にならん」古川は手で彼女の言葉を遮った。「法廷で争うなら使えるかもしれん。だがこっちは法廷以前の段階で負けるんや。記事が出る前に、上から電話一本で潰される——お前も記者ならそれぐらいわかるやろ。真実より、力関係が先に決着をつける。この世界ではいつも——そうや」
五十嵐は何かを言いかけて、やめた。古川の声の震えに——いや、声の震えのなさに——気づいたからだ。彼は恐怖していない。彼はこの仕組みの中で、むしろ安堵している。上からの圧力に従っていれば、少なくとも自分は安全だ。そう信じて生きてきた男の、十年分の諦めがそこにあった。
同日、夕方。俺は自宅アパートに戻って鍵を開け、一瞬で異変を察知した。
ドアの鍵に傷——ピッキング痕だ。室内に足を踏み入れて唖然とした。机の引き出しはすべて引き抜かれ床にひっくり返され、壁に貼った相関図は破り取られ、資料の入ったダンボール箱は中身をぶちまけられていた。ノートパソコン、バックアップ用の外付けハードディスク、十数冊の取材ノート——すべてが消えていた。一ヶ月半かけて集めた証拠のすべてが、三十分かそこらの荒らしで綺麗さっぱりなくなっていた。
(読まれた——全部、筒抜けだ)
壁に目をやると、破られた相関図の代わりに一枚の紙が画鋲で留められていた。パソコン印字の短い文章——前回の脅迫状と同じ游明朝のフォント、同じコンビニの無地便箋だった。
『次はない』
その四文字が、飾り気のない白い紙の上で異様な存在感を放っていた。
スマホが震えた。五十嵐からだ。
「——高橋さん、記事が凍結されました。古川が編集局長が直々に。資料も全部没収で」
「こっちもです。自宅が荒らされて、資料が全部——」
「なんですって——」
「五十嵐さん、すぐに綾乃さんに連絡を。図書館も危ない」
五十嵐との電話を切った直後——十分も経たずに綾乃から着信があった。
「高橋さん、図書館に——閉館後に誰かが入ったみたいです。閉架書庫の鍵が壊されて、私のロッカーも開けられて——あなたから借りていた資料が、全部なくなってました」
「——怪我は」
「私は大丈夫です。今日は定時で帰ってて——でも、もう——」
綾乃の声が震えている。彼女が十年かけてようやく語れるようになった真実が、また誰かの手によって消されようとしている。その恐怖が電話越しに生々しく伝わってきた。
「綾乃さん。あなたはしばらく図書館を休んでください。安全な場所に身を隠して——」
「どこが、安全なんですか」綾乃の声はかすれていた。「もう、どこにも——」
俺は答えられなかった。この街のどこにいても、相手は見つけ出せる。それだけの力と情報網を持っている。それが今、骨の髄までわかった。
その夜、俺はコーヒーもつけずに電話をかけた。コール二回で神崎が出る。
「全部やられた。証拠も資料も——自宅を荒らされて根こそぎ持っていかれた。五十嵐の記事も凍結。綾乃の職場にも侵入——」
「だろうな」神崎の声は相変わらず落ち着いていたが、その奥に初めて警戒の色が滲んでいた。「前にも言うたやろ。相手はこの街の教育行政を十年間牛耳ってきた組織や。市役所も警察も、あいつらの息がかかっとる。お前一人で——」
「それでも引けません」
電話の向こうで、神崎が小さく息を吐く音が聞こえた。
「——なあ高橋。なんでそこまでや。自分の命を懸けるほどのことか」
俺は机の引き出しを開けた。荒らされた部屋の中で唯一無事だったのが、この引き出しにしまっておいた万年筆だった。パーカーの黒い万年筆。父の形見。
「昔、俺は真実を曲げました。新聞社の記者だった頃——内部告発の記事を、上からの圧力でもみ消す側に回った。記者として、人として、絶対に踏み越えてはいけない一線を越えたんです。それ以来ずっと——自分を許せなかった。いつかこの借りを返さなければと思ってきた。だから今回は——違います。絶対に引きません」
受話器の向こうで、しばらく沈黙が流れた。それから神崎が深く息を吸い込む音。
「——わかった。ほな、最後にひとつだけ教えとく」
神崎の声が一段と低くなった。これは——警告だ。俺は受話器を握り直した。
「サンライトハイツの土地。あれは元々、大阪市の市有地やった。二十年前——ちょうど優斗が死んだ直後にな、あの土地が格安で民間に払い下げられた。買い取ったのは市内でも指折りの名家——何代も前からこの街の政治と教育と経済を牛耳ってきた家系や。マンションを建てたゼネコンも、今の管理会社も——全部その家系の関連企業や」
「——誰です」
「高柳。高柳家や」
俺の手が止まった。大阪でその名を知らぬ者はいない。政財界に深く根を張り、代々この街の教育行政にも強い影響力を持つ一族——戦前から続く地元の名士だ。
「朝比奈悟がたった十年で教育課長にまで出世できたのは、高柳家の後ろ盾があったからや。十年前、優斗の事件をもみ消せたのも——全部、その力があったからや。学校も、教育委員会も、警察も——みんな、高柳家に逆らえへんかった」
「朝比奈は——」
「飼い犬や」神崎は吐き捨てるように言った。「高柳家の駒の一つに過ぎん。優斗を殺したのも朝比奈かもしれんが——その死をもみ消し、十年間この街を覆い続けてきた仕組みを作ったのは、もっと上や。高柳家は、自分たちの権威が傷つくのを何よりも恐れとる。学校のスキャンダルが一族の名に傷をつける——それだけは、絶対に許さへん」
神崎はそこで言葉を切り、最後にこう付け加えた。
「気ぃつけろ。もう相手は本気や。高柳の名前が出た以上——お前はこの街の権力そのものを敵に回したんやで」
電話を切った。窓の外では十二月の風が吹き荒れ、電線が低く唸りを上げている。机の上に唯一残された万年筆を見下ろしながら、俺はかすかに口元を歪めた。
(親父——俺は今回、絶対に引かない。お前が命を懸けて守ろうとした「真実」ってものが、どんな形をしているのか——今度こそ、ちゃんと見届ける)




