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婚礼の前夜

 婚礼の前夜になった。


 ひと月は、あっという間だった。


 婚礼衣装の最後の調整。式の段取り。招く人の選定。すべてが慌ただしく、でも確かに整っていった。


 そして——フェンはまだ、ここにいた。


 少しずつ痩せて、少しずつ眠る時間が増えて。それでも、まだ私の隣にいた。



 前夜、研究所にはいつもの三人がいた。


 私と、ナーシャと、フェンと。


 明日からは、私は王城に移る。週に何日かは研究所に通うけれど、ここで眠るのは今夜がしばらく最後だった。


「……なんだか、不思議です」とナーシャが言った。


「何がですか」


「明日、先生がお嫁さんになるなんて」



 私たちは、最後の夜をいつも通りに過ごした。


 いつものスープを作って、いつものパンを焼いて。フェンの分には、おばあさんがくれた肉を柔らかく煮込んで。


 暖炉の前で、三人で食事をした。


 特別なごちそうは、なかった。


 でも——これ以上のごちそうは、なかった。



「ナーシャ」と私は言った。


「はい」


「この研究所をお願いします」


「……はい」


「あなたなら、できます。もう半分以上のことは、一人でできるようになりました」


 ナーシャが唇を結んだ。


「……先生。私、まだ半人前です」


「半人前で十分です」と私は言った。「私だって、ここに来たときは半人前でした。半人前のまま、やりながら一人前になっていけばいいんです」



「先生も、そうだったんですか」


「そうでした」と私は言った。「最初の調合は、失敗ばかりでした。薬草を枯らして、患者に謝って。でも——フェンが隣にいてくれたので、続けられました」


 フェンが縁側で「昔の話だ」と言った。


「フェンは覚えていますか。私が初めて薬を作った日のこと」


「覚えている」とフェンは言った。「ひどい出来だった」


「ひどい、とは」


「だが、お前は諦めなかった。それだけは立派だった」



 夜が更けて、ナーシャが眠った後。


 私はフェンと二人で、縁側に出た。


 冬の夜空に星が満ちていた。


「フェン」


「なんだ」


「明日、立てそうですか」


「立つ」とフェンははっきりと言った。「明日だけは、必ず立つ。お前の隣を歩く」



 私はフェンの隣に座った。


 白い毛並みに、手を置いた。


 まだ、温かかった。


「……フェン。私、明日、泣くと思います」


「だろうな」


「でも、それは悲しい涙ではなくて」


「わかっている」とフェンは言った。「お前の涙は、もう悲しいだけのものではない。——お前はいろんな涙を流せるようになった」



「七年前のお前は」とフェンは続けた。「涙が出なかった。離縁状を受け取っても、一滴も。心が凍っていた」


「……はい」


「だが、今のお前は泣ける。笑える。怒れる。——人間に戻った」


 フェンが私を見た。


 その金色の目に星空が映っていた。


「それを見届けられたことが、俺の一番の誇りだ」



 私はフェンの首に、そっと顔を寄せた。


「……ありがとう、フェン」


「礼は、いらん」


「言わせてください。——あなたが私を、人間に戻してくれました」


 フェンは何も言わなかった。


 ただ、私の頭にそっと鼻先を寄せた。


 その仕草が何よりの返事だった。



「さあ、寝ろ」とフェンが言った。「明日は、お前の晴れの日だ」


「はい」


「いい花嫁に、なれ」


「……はい」


 私は立ち上がった。


 星空の下で、フェンが私を見上げていた。


 その姿を、私はしっかりと目に焼き付けた。


 明日。


 いよいよ、明日だった。


 七年間の凍えも、二年間の立ち直りも、すべてを抱えて——私は自分で選んだ場所へ歩いていく。


 フェンと、カイルと、ナーシャと。


 みんなと、一緒に。


 窓の外の星が、明日の晴れを約束するように強く光っていた。


(第100話へ続く)

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