婚礼の前夜
婚礼の前夜になった。
ひと月は、あっという間だった。
婚礼衣装の最後の調整。式の段取り。招く人の選定。すべてが慌ただしく、でも確かに整っていった。
そして——フェンはまだ、ここにいた。
少しずつ痩せて、少しずつ眠る時間が増えて。それでも、まだ私の隣にいた。
◆
前夜、研究所にはいつもの三人がいた。
私と、ナーシャと、フェンと。
明日からは、私は王城に移る。週に何日かは研究所に通うけれど、ここで眠るのは今夜がしばらく最後だった。
「……なんだか、不思議です」とナーシャが言った。
「何がですか」
「明日、先生がお嫁さんになるなんて」
◆
私たちは、最後の夜をいつも通りに過ごした。
いつものスープを作って、いつものパンを焼いて。フェンの分には、おばあさんがくれた肉を柔らかく煮込んで。
暖炉の前で、三人で食事をした。
特別なごちそうは、なかった。
でも——これ以上のごちそうは、なかった。
◆
「ナーシャ」と私は言った。
「はい」
「この研究所をお願いします」
「……はい」
「あなたなら、できます。もう半分以上のことは、一人でできるようになりました」
ナーシャが唇を結んだ。
「……先生。私、まだ半人前です」
「半人前で十分です」と私は言った。「私だって、ここに来たときは半人前でした。半人前のまま、やりながら一人前になっていけばいいんです」
◆
「先生も、そうだったんですか」
「そうでした」と私は言った。「最初の調合は、失敗ばかりでした。薬草を枯らして、患者に謝って。でも——フェンが隣にいてくれたので、続けられました」
フェンが縁側で「昔の話だ」と言った。
「フェンは覚えていますか。私が初めて薬を作った日のこと」
「覚えている」とフェンは言った。「ひどい出来だった」
「ひどい、とは」
「だが、お前は諦めなかった。それだけは立派だった」
◆
夜が更けて、ナーシャが眠った後。
私はフェンと二人で、縁側に出た。
冬の夜空に星が満ちていた。
「フェン」
「なんだ」
「明日、立てそうですか」
「立つ」とフェンははっきりと言った。「明日だけは、必ず立つ。お前の隣を歩く」
◆
私はフェンの隣に座った。
白い毛並みに、手を置いた。
まだ、温かかった。
「……フェン。私、明日、泣くと思います」
「だろうな」
「でも、それは悲しい涙ではなくて」
「わかっている」とフェンは言った。「お前の涙は、もう悲しいだけのものではない。——お前はいろんな涙を流せるようになった」
◆
「七年前のお前は」とフェンは続けた。「涙が出なかった。離縁状を受け取っても、一滴も。心が凍っていた」
「……はい」
「だが、今のお前は泣ける。笑える。怒れる。——人間に戻った」
フェンが私を見た。
その金色の目に星空が映っていた。
「それを見届けられたことが、俺の一番の誇りだ」
◆
私はフェンの首に、そっと顔を寄せた。
「……ありがとう、フェン」
「礼は、いらん」
「言わせてください。——あなたが私を、人間に戻してくれました」
フェンは何も言わなかった。
ただ、私の頭にそっと鼻先を寄せた。
その仕草が何よりの返事だった。
◆
「さあ、寝ろ」とフェンが言った。「明日は、お前の晴れの日だ」
「はい」
「いい花嫁に、なれ」
「……はい」
私は立ち上がった。
星空の下で、フェンが私を見上げていた。
その姿を、私はしっかりと目に焼き付けた。
明日。
いよいよ、明日だった。
七年間の凍えも、二年間の立ち直りも、すべてを抱えて——私は自分で選んだ場所へ歩いていく。
フェンと、カイルと、ナーシャと。
みんなと、一緒に。
窓の外の星が、明日の晴れを約束するように強く光っていた。
(第100話へ続く)




