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婚礼

 婚礼の朝が来た。


 空はよく晴れていた。冬の終わりの、澄んだ青空だった。


 目が覚めたとき、最初に思ったのはフェンのことだった。


 寝室を出て、縁側に向かう。


 フェンはいつもの場所にいた。


 そして——立っていた。


「……おはよう、エリーゼ」


「フェン」


「言っただろう。今日だけは、必ず立つ、と」



 フェンの白い毛並みは、朝の光の中でいつもより艶やかに見えた。


 まるで今日のために力を蓄えていたかのように。


「無理をしていませんか」


「している」とフェンはあっさり言った。「だが、いい無理だ。今日くらいは、相棒の晴れ姿をちゃんと立って見たい」


 私は何も言えずに、ただフェンの首にそっと触れた。


 温かかった。


 まだちゃんと温かかった。



 王城から迎えの馬車が来た。


 ナーシャが研究所の前で、私の支度を手伝ってくれた。


「先生、いよいよですね」


「いよいよです」


「……泣かないようにします」とナーシャは言った。


「泣いても、いいですよ」


「先生が泣いてないのに、私が泣くわけにいきません」


 私は少し笑った。


「私は、たぶん、後で泣きます」



 王城の支度の間で、婚礼衣装に着替えた。


 白い絹のドレスだった。あの灰色のドレスを仕立ててくれた白髪の女性が、また手がけてくれたものだった。


 胸元にはやはり薬草の刺繍があった。


 でも今度は、銀糸ではなく——金糸だった。


「……晴れの日ですから」と女性は言った。「今日だけは金で。あなたの新しい門出に」



 鏡の前に立った。


 白いドレスを着た私が、そこにいた。


 七年前の婚礼を、私は覚えていない。あのときの衣装も式の段取りも、全部、家門が決めた。私はただ着せられて、立たされて、頷いていた。


 でも、今日は——違う。


 今日の衣装は私が選んだ。今日のこの場所も、私が選んだ。


 鏡の中の私は、誰かに立たされた顔ではなかった。


 自分の足で立っている顔だった。



 支度が整った頃、扉が叩かれた。


 王妃様だった。


「……まあ」と王妃様は私を見て言った。「きれいね」


「ありがとうございます」


「カイルが、卒倒しないといいけれど」


 王妃様が少しいたずらっぽく笑った。


 それから私の手を取って、静かに言った。


「エリーゼ。——よく、来てくれたわね。あの子のところに」



「あの子は、不器用な子よ」と王妃様は言った。「愛情の伝え方も下手。言葉も足りない。——でも、心はまっすぐな子なの」


「……はい。知っています」


「あなたなら、わかってくれると思っていたわ」


 王妃様が私の頬にそっと触れた。


「今日から、あなたはわたくしの娘よ。——困ったことがあれば、いつでも母を頼りなさい」


 母、という言葉が、胸に静かに染みた。



 式は王城の大聖堂で行われた。


 扉の前で、私は深呼吸をした。


 扉が開けば、その先にカイルがいる。長い通路の、その先に。


 隣を見た。


 フェンがいた。


 立って、私の隣にいた。


「……行きましょう、フェン」


「ああ」



 扉が開いた。


 光が差し込んだ。


 大聖堂の中は人で満ちていた。貴族たち。王城の人々。そして——町の人たち。腰痛のおばあさん。大工の親方。研究所に通う患者たち。カイルが招いてくれたのだ。


 みんなが私を見ていた。


 でも私は、もうその視線に俯かなかった。



 通路の先に、カイルが立っていた。


 白い礼服を着たカイルが。


 その顔は——言葉を探す顔ではなかった。


 ただまっすぐに、私だけを見ていた。


 私は一歩、踏み出した。


 フェンが隣を歩いた。


 ゆっくりと。確かに。一歩ずつ。



 歩きながら、私はこれまでのことを思っていた。


 七年間の、凍えた日々。


 離縁状を受け取った、あの朝。涙の出なかった、あの朝。


 わずかな持参金を持ってこの町に来た、最初の夜。寒くて、心細くて、でも不思議と清々しかった、あの夜。


 山で罠にかかったフェンを見つけた、あの日。


 ナーシャが弟子にしてください、と頭を下げた、あの日。


 雨の日に、カイルが初めて研究所に来た、あの日。



 全部が、今日に繋がっていた。


 無駄な日は、一日もなかった。


 つらかった日々も嬉しかった日々も、全部が今、私をこの通路の上に立たせていた。


 誰かに立たされたのではなく。


 私が自分で歩いてきた道だった。



 カイルの前に着いた。


 カイルが私を見て、口を開いた。


「……来てくれて」


 その声が、少し震えていた。


 あの、いつも落ち着いているカイルの声が。


「来ると言いましたから」と私は答えた。


 いつもの、私たちのやりとりだった。


 カイルがふっと笑った。


 緊張がほどけたような笑みだった。



 誓いの言葉を交わした。


 病めるときも、健やかなるときも。


 貧しきときも、富めるときも。


 その言葉を、私は一つずつ、自分の言葉として口にした。


 誰のためでもなく。家門のためでもなく。


 ただ、私自身の意志として。



 誓いの口づけの前に、私は一度だけ振り返った。


 フェンを見るために。


 フェンは私のすぐ後ろに立っていた。


 しっかりと、四つの足で立っていた。


 その金色の目は、まっすぐに私を見ていた。


 誇らしげに。優しく。そして——少しだけ、寂しげに。



 フェンが小さく頷いた。


 行け、と言うように。


 大丈夫だ、と言うように。


 私は頷き返した。


 そして、前を向いた。



 誓いの口づけを交わした。


 大聖堂に、祝福の声が満ちた。


 町の人たちが声を上げて喜んでくれた。ナーシャが最前列でぼろぼろと泣いていた。王妃様が静かに目元を押さえていた。


 私の目からも、涙が零れた。


 でも、それは——七年前には流せなかった涙だった。


 凍っていた心が溶けて、流れ出た温かい涙だった。



 式が終わり、大聖堂を出るとき。


 私はもう一度、フェンの隣に行った。


「……フェン。見ていてくれましたか」


「見ていた」とフェンは言った。「最初から、最後まで。一瞬も見逃さなかった」


「どうでしたか」


 フェンがしばらく、私を見た。


 それから、ゆっくりと言った。



「……いい花嫁だった」


 その一言に、私はまた泣いてしまった。


「フェン」


「泣くな。せっかくの化粧が崩れる」


「……はい」


「だが」とフェンは付け加えた。「今日の涙は流していい。今日くらいは、いくらでも流していい」


 私はフェンの首に顔を埋めた。


 白い毛並みが、私の涙を受け止めてくれた。


 いつものように。


 二年間、ずっとそうしてくれたように。



「エリーゼ」とフェンが言った。


「はい」


「俺は、約束を果たしたぞ」


「……はい。果たしてくれました」


「お前の婚礼を見届けた。立って、お前の隣を歩いた。——これで、思い残すことはない」


 その言葉に、胸が締めつけられた。


「フェン。それは——」


「案ずるな」とフェンはいつもの調子で言った。「まだ、すぐにはいなくならん。ナーシャが一人前になるのも見ると約束した。欲張りな弟子のために、もう少し生きる」



 私は涙の顔で笑った。


「……欲張りなのは、いいことなんですよね」


「ああ」とフェンは言った。「生きる理由が増える」


 冬の終わりの空が、青く晴れていた。


 大聖堂の鐘が、高く鳴り響いた。


 カイルが私の隣に来た。


 フェンが、私のもう一方の隣にいた。


 ナーシャが駆け寄ってきた。


 みんながいた。



 七年前、私は一人だった。


 涙も流せず、心を凍らせて、ただ頷くだけの人形だった。


 でも、今は。


 隣に、夫がいる。


 相棒がいる。


 弟子がいる。


 たくさんの大切な人たちが、いる。



 私は自分で選んだ場所に立っていた。


 誰かに立たされたのではなく。


 自分の足で歩いてきて辿り着いた、その場所に。


 空を見上げた。


 冬の終わりの、青い空。


 その空の下で、私は心から思った。


 ——ここまで来られて、よかった。


 鐘の音が、いつまでも鳴り響いていた。


 春はもう、すぐそこまで来ていた。


(第一部 完)


(第二部 第101話へ続く)

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