婚礼
婚礼の朝が来た。
空はよく晴れていた。冬の終わりの、澄んだ青空だった。
目が覚めたとき、最初に思ったのはフェンのことだった。
寝室を出て、縁側に向かう。
フェンはいつもの場所にいた。
そして——立っていた。
「……おはよう、エリーゼ」
「フェン」
「言っただろう。今日だけは、必ず立つ、と」
◆
フェンの白い毛並みは、朝の光の中でいつもより艶やかに見えた。
まるで今日のために力を蓄えていたかのように。
「無理をしていませんか」
「している」とフェンはあっさり言った。「だが、いい無理だ。今日くらいは、相棒の晴れ姿をちゃんと立って見たい」
私は何も言えずに、ただフェンの首にそっと触れた。
温かかった。
まだちゃんと温かかった。
◆
王城から迎えの馬車が来た。
ナーシャが研究所の前で、私の支度を手伝ってくれた。
「先生、いよいよですね」
「いよいよです」
「……泣かないようにします」とナーシャは言った。
「泣いても、いいですよ」
「先生が泣いてないのに、私が泣くわけにいきません」
私は少し笑った。
「私は、たぶん、後で泣きます」
◆
王城の支度の間で、婚礼衣装に着替えた。
白い絹のドレスだった。あの灰色のドレスを仕立ててくれた白髪の女性が、また手がけてくれたものだった。
胸元にはやはり薬草の刺繍があった。
でも今度は、銀糸ではなく——金糸だった。
「……晴れの日ですから」と女性は言った。「今日だけは金で。あなたの新しい門出に」
◆
鏡の前に立った。
白いドレスを着た私が、そこにいた。
七年前の婚礼を、私は覚えていない。あのときの衣装も式の段取りも、全部、家門が決めた。私はただ着せられて、立たされて、頷いていた。
でも、今日は——違う。
今日の衣装は私が選んだ。今日のこの場所も、私が選んだ。
鏡の中の私は、誰かに立たされた顔ではなかった。
自分の足で立っている顔だった。
◆
支度が整った頃、扉が叩かれた。
王妃様だった。
「……まあ」と王妃様は私を見て言った。「きれいね」
「ありがとうございます」
「カイルが、卒倒しないといいけれど」
王妃様が少しいたずらっぽく笑った。
それから私の手を取って、静かに言った。
「エリーゼ。——よく、来てくれたわね。あの子のところに」
◆
「あの子は、不器用な子よ」と王妃様は言った。「愛情の伝え方も下手。言葉も足りない。——でも、心はまっすぐな子なの」
「……はい。知っています」
「あなたなら、わかってくれると思っていたわ」
王妃様が私の頬にそっと触れた。
「今日から、あなたはわたくしの娘よ。——困ったことがあれば、いつでも母を頼りなさい」
母、という言葉が、胸に静かに染みた。
◆
式は王城の大聖堂で行われた。
扉の前で、私は深呼吸をした。
扉が開けば、その先にカイルがいる。長い通路の、その先に。
隣を見た。
フェンがいた。
立って、私の隣にいた。
「……行きましょう、フェン」
「ああ」
◆
扉が開いた。
光が差し込んだ。
大聖堂の中は人で満ちていた。貴族たち。王城の人々。そして——町の人たち。腰痛のおばあさん。大工の親方。研究所に通う患者たち。カイルが招いてくれたのだ。
みんなが私を見ていた。
でも私は、もうその視線に俯かなかった。
◆
通路の先に、カイルが立っていた。
白い礼服を着たカイルが。
その顔は——言葉を探す顔ではなかった。
ただまっすぐに、私だけを見ていた。
私は一歩、踏み出した。
フェンが隣を歩いた。
ゆっくりと。確かに。一歩ずつ。
◆
歩きながら、私はこれまでのことを思っていた。
七年間の、凍えた日々。
離縁状を受け取った、あの朝。涙の出なかった、あの朝。
わずかな持参金を持ってこの町に来た、最初の夜。寒くて、心細くて、でも不思議と清々しかった、あの夜。
山で罠にかかったフェンを見つけた、あの日。
ナーシャが弟子にしてください、と頭を下げた、あの日。
雨の日に、カイルが初めて研究所に来た、あの日。
◆
全部が、今日に繋がっていた。
無駄な日は、一日もなかった。
つらかった日々も嬉しかった日々も、全部が今、私をこの通路の上に立たせていた。
誰かに立たされたのではなく。
私が自分で歩いてきた道だった。
◆
カイルの前に着いた。
カイルが私を見て、口を開いた。
「……来てくれて」
その声が、少し震えていた。
あの、いつも落ち着いているカイルの声が。
「来ると言いましたから」と私は答えた。
いつもの、私たちのやりとりだった。
カイルがふっと笑った。
緊張がほどけたような笑みだった。
◆
誓いの言葉を交わした。
病めるときも、健やかなるときも。
貧しきときも、富めるときも。
その言葉を、私は一つずつ、自分の言葉として口にした。
誰のためでもなく。家門のためでもなく。
ただ、私自身の意志として。
◆
誓いの口づけの前に、私は一度だけ振り返った。
フェンを見るために。
フェンは私のすぐ後ろに立っていた。
しっかりと、四つの足で立っていた。
その金色の目は、まっすぐに私を見ていた。
誇らしげに。優しく。そして——少しだけ、寂しげに。
◆
フェンが小さく頷いた。
行け、と言うように。
大丈夫だ、と言うように。
私は頷き返した。
そして、前を向いた。
◆
誓いの口づけを交わした。
大聖堂に、祝福の声が満ちた。
町の人たちが声を上げて喜んでくれた。ナーシャが最前列でぼろぼろと泣いていた。王妃様が静かに目元を押さえていた。
私の目からも、涙が零れた。
でも、それは——七年前には流せなかった涙だった。
凍っていた心が溶けて、流れ出た温かい涙だった。
◆
式が終わり、大聖堂を出るとき。
私はもう一度、フェンの隣に行った。
「……フェン。見ていてくれましたか」
「見ていた」とフェンは言った。「最初から、最後まで。一瞬も見逃さなかった」
「どうでしたか」
フェンがしばらく、私を見た。
それから、ゆっくりと言った。
◆
「……いい花嫁だった」
その一言に、私はまた泣いてしまった。
「フェン」
「泣くな。せっかくの化粧が崩れる」
「……はい」
「だが」とフェンは付け加えた。「今日の涙は流していい。今日くらいは、いくらでも流していい」
私はフェンの首に顔を埋めた。
白い毛並みが、私の涙を受け止めてくれた。
いつものように。
二年間、ずっとそうしてくれたように。
◆
「エリーゼ」とフェンが言った。
「はい」
「俺は、約束を果たしたぞ」
「……はい。果たしてくれました」
「お前の婚礼を見届けた。立って、お前の隣を歩いた。——これで、思い残すことはない」
その言葉に、胸が締めつけられた。
「フェン。それは——」
「案ずるな」とフェンはいつもの調子で言った。「まだ、すぐにはいなくならん。ナーシャが一人前になるのも見ると約束した。欲張りな弟子のために、もう少し生きる」
◆
私は涙の顔で笑った。
「……欲張りなのは、いいことなんですよね」
「ああ」とフェンは言った。「生きる理由が増える」
冬の終わりの空が、青く晴れていた。
大聖堂の鐘が、高く鳴り響いた。
カイルが私の隣に来た。
フェンが、私のもう一方の隣にいた。
ナーシャが駆け寄ってきた。
みんながいた。
◆
七年前、私は一人だった。
涙も流せず、心を凍らせて、ただ頷くだけの人形だった。
でも、今は。
隣に、夫がいる。
相棒がいる。
弟子がいる。
たくさんの大切な人たちが、いる。
◆
私は自分で選んだ場所に立っていた。
誰かに立たされたのではなく。
自分の足で歩いてきて辿り着いた、その場所に。
空を見上げた。
冬の終わりの、青い空。
その空の下で、私は心から思った。
——ここまで来られて、よかった。
鐘の音が、いつまでも鳴り響いていた。
春はもう、すぐそこまで来ていた。
(第一部 完)
(第二部 第101話へ続く)




