王城の朝
——第二部——
婚礼から、半月が過ぎた。
私は今、王城の一室で朝を迎えている。
高い天井。広い窓。手入れの行き届いた庭。何もかもが、研究所とは違っていた。
最初の朝、目が覚めたとき、私は一瞬ここがどこかわからなかった。研究所の低い天井が、見えなかったから。
◆
でも、隣を見ると、フェンがいた。
王城に来ることを、フェンは当然のように選んだ。
「お前のいるところが、俺のいるところだ」と、それだけ言って。
広すぎる部屋の窓辺の日だまりに、フェンは伏せていた。
その姿を見ると、ここがどこであっても安心した。
◆
王城での暮らしは、思っていたより慌ただしかった。
第二王子の妃という立場には、やることが多かった。挨拶。書類。儀礼。覚えることは、山のようにあった。
でも——七年間、家門の行事を取り仕切っていた経験が、ここでも役に立った。
人生は、無駄になるものが案外少ない。
あのときの苦労が、今の私を支えていた。
◆
週に三日は、研究所に通った。
馬車で半刻ほどの距離だった。カイルが、その時間をちゃんと確保してくれた。
「あなたから研究所を取り上げるつもりはありません」と彼は言った。「あれは、あなたが自分で築いたものだ。妃になっても、薬師のあなたは薬師のままで」
研究所に行くと、ナーシャが少しだけ大人びた顔で患者を診ていた。
◆
「先生! いらっしゃい!」
「ナーシャ。患者さんは」
「今日は、もう三人診ました。腰痛のおばあさんと、子供の発熱と、あと——」
ナーシャが、てきぱきと報告した。
半月留守にしただけで、ナーシャはずいぶん頼もしくなっていた。
一人で、やらなければならない。その状況が、ナーシャを急速に育てていた。
◆
「立派になりましたね」と私は言った。
「先生がいないと、やるしかないですから」とナーシャは言った。「でも——たまに、心細いです」
「そういうときは」
「手紙、書きます。容赦なく」
「容赦なく、どうぞ」
私たちは、笑った。
いつものやりとりだった。
◆
そんな新しい日々の中で。
ある日、カイルが少し難しい顔をして帰ってきた。
「……何か、ありましたか」と私は聞いた。
カイルは、しばらく言葉を選んでいた。
「兄が」と、彼は言った。「兄上が、あなたに会いたいと」
◆
兄。
第一王子、アルヴィン殿下。
私は、まだその方に会ったことがなかった。婚礼にも、公務で遠方にいて出席していなかった。
「アルヴィン殿下が、私に」
「はい」と、カイルは言った。「明日、お茶に招きたいと」
カイルの声に、わずかな緊張があった。
◆
「……アルヴィン殿下は、どのような方ですか」と私は聞いた。
カイルは、すぐには答えなかった。
「……穏やかな人です」と、彼は慎重に言った。「物腰も、言葉も柔らかい。誰にでも優しい」
「いい方なのですね」
「……ええ」
でも、カイルの「ええ」には、何か引っかかるものがあった。
◆
「カイル」と私は言った。「何か、言いたいことがありますか」
カイルは、私を見た。
それから、ゆっくりと言った。
「兄は——優しい人です。でも、その優しさの奥が読めない人でもある。言葉は柔らかいのに、なぜか断れない。気づくと、相手の思う通りに動かされている」
「……」
「気をつけてください、とは言いません。あなたなら、大丈夫だと思うので。でも——少しだけ、覚えておいてください」
◆
その夜、フェンにその話をした。
フェンは、しばらく黙って聞いていた。
「……第一王子か」
「はい。明日、会います」
フェンが、ゆっくりと頭を持ち上げた。
「明日は、俺も行く」
「フェン。無理は」
「無理は、しない」とフェンは言った。「だが、お前が知らない相手に会うとき、俺が隣にいないわけにはいかん。——相棒だからな」
◆
私は、フェンの首にそっと触れた。
温かかった。
婚礼の日から、フェンは不思議と、少しだけ元気を取り戻していた。「生きる理由」が効いているのかもしれなかった。
「……ありがとう、フェン」
「礼は、いらん」
窓の外に、王城の庭が夜の闇に沈んでいた。
明日、私はアルヴィン殿下に会う。
穏やかで、優しくて、でも奥の読めない人に。
◆
新しい日々の、新しい始まりだった。
第一部が、私の「立ち直り」の物語だったなら。
第二部は——きっと、私が「立ち続ける」物語になる。
その予感を抱きながら、私は静かに目を閉じた。
隣で、フェンの寝息が聞こえていた。
(第102話へ続く)




