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第一王子

 翌日の午後、私はアルヴィン殿下の私室へ向かった。


 フェンが、隣を歩いた。ゆっくりとした、でも確かな足取りで。


 案内された部屋は、明るく品のいい部屋だった。窓から、冬の終わりの日差しが柔らかく差し込んでいた。


 そして——その光の中に、一人の男性が座っていた。



「ようこそ、エリーゼ妃」


 穏やかな声だった。


 立ち上がって私を迎えた男性は、カイルとどこか似ていた。でも、カイルより線が柔らかかった。微笑みを絶やさない人だった。


「アルヴィンです。あなたに会えるのを、楽しみにしていました」


「お招きいただき、ありがとうございます」と私は礼をした。



「どうぞ、お座りください。——おや」


 アルヴィン殿下の視線が、フェンに向いた。


「これは、聖獣フェンリルですね。話には聞いていました。本物に会えるとは、光栄です」


 フェンは、何も言わなかった。


 ただ、じっとアルヴィン殿下を見ていた。


 値踏みするような、目だった。



 お茶が運ばれてきた。


 アルヴィン殿下は、終始にこやかだった。


 今年の冬のこと。王城の庭のこと。エリーゼの研究所のこと。話題は、柔らかく流れるように続いた。


 会話の上手な人だった。気がつくと、私は自分のことを、少しずつ話していた。


 研究所のこと。ナーシャのこと。薬師としての日々のこと。



「……素晴らしいですね」とアルヴィン殿下は言った。「ご自分の力で、何もないところから診療所を築き上げた。並大抵のことではない」


「多くの人に、助けられました」


「ご謙遜を。——いや、本当に、感心しているのです。あなたのような方が、弟の妃になってくれて、わたしも嬉しい」


 言葉は、どこまでも優しかった。


 でも——その優しさの奥に、何かがあった。



「ところで」と、アルヴィン殿下が、ふと言った。


「はい」


「あなたの研究所——もし王家の支援があれば、もっと大きくできると思いませんか」


 私は、少し止まった。


「と、おっしゃいますと」


「王立の医療院として、整備するのです。あなたを、その長に。薬師を集め、設備を整え——国中の病める者を救う。あなたの志を、もっと大きく広げられる」



 魅力的な提案だった。


 言葉だけを聞けば。


 でも——どこかに、引っかかるものがあった。


「……ありがたいお話です」と私は言った。「ただ、少し考えさせてください」


「もちろん。急ぐ話ではありません」とアルヴィン殿下は微笑んだ。「ただ——あなたほどの人が、町の小さな診療所に留まっているのは、もったいない。そう思っただけです」



 その言葉に、私はわずかに引っかかった。


 もったいない。


 町の、小さな診療所。


 アルヴィン殿下にとって、私の研究所は「小さなもの」だ。もっと大きくすべき、もったいないもの。


 でも——私にとって、あの研究所は。



「アルヴィン殿下」と私は言った。


「はい」


「私にとって、あの研究所は、小さくはありません」


 アルヴィン殿下の微笑みが、一瞬止まった。


 ほんの一瞬だった。


「……ほう」


「あそこには、私が二年かけて築いたすべてがあります。患者さんとの繋がりも、弟子との時間も、薬草の一本一本も。——大きさでは計れないものです」



 アルヴィン殿下は、しばらく私を見ていた。


 その目は、相変わらず穏やかだった。


 でも、その奥で、何かが静かに動いた気がした。


「……なるほど」と、彼は言った。「あなたは、面白い人ですね」


「面白い、ですか」


「ええ。たいていの人は、わたしの提案に喜んで飛びつく。でも、あなたは——違う」



 その時、フェンが低い声で言った。


「……第一王子」


「これは、聖獣殿。何でしょう」


「お前の言葉は、甘い」とフェンは言った。「だが、甘い果実には、種がある。——お前の種は、何だ」


 部屋の空気が、わずかに張り詰めた。



 アルヴィン殿下は、フェンを見て——そして、笑った。


 声を立てて、楽しそうに。


「聖獣殿は、鋭い」と彼は言った。「さすが、長く生きておられる。——種、ですか。いずれ、お話しすることもあるでしょう。今日は、ご挨拶だけということで」



 お茶が終わり、部屋を出るとき。


 アルヴィン殿下が、最後に言った。


「エリーゼ妃。——わたしは、あなたを気に入りました」


「光栄です」


「弟は、いい人を選んだ。本当に」


 言葉は、優しかった。


 でも、私は——その優しさの裏に、まだ読めない何かを感じていた。



 部屋を出て、廊下を歩きながら、フェンが言った。


「……エリーゼ」


「はい」


「あの男、気をつけろ」


「カイルも、同じことを言いました」


「兄弟そろって、警戒される男か」とフェンは、少し皮肉っぽく言った。「だが——あの男の警戒は、カイルの警戒とは、種類が違う」



「種類が、違う?」


「カイルは、お前を守るために警戒している」とフェンは言った。「だが、あの第一王子は——お前を、使うために近づいている」


 冬の終わりの日差しが、王城の廊下に長い影を落としていた。


 私は、その影の中を、フェンと並んで歩いた。


 穏やかで、優しくて、奥の読めない人。


 第二部の新しい風が——静かに吹き始めていた。


(第103話へ続く)

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