支度の日々
婚礼は、ひと月後と決まった。
本来なら、王家の婚礼は半年かけて準備するものだという。それを、ひと月で。カイルが王城のすべてを動かして、整えていった。
「無理をしていませんか」と私は聞いた。
「しています」とカイルは正直に言った。「でも、いい無理です。こういう無理なら、いくらでもします」
◆
研究所にも、婚礼の支度が少しずつ持ち込まれた。
ナーシャは最初、事情を知らなかった。
「先生! 婚礼、早まったんですか!? なんで!?」
私は少し迷ってから、ナーシャに話した。
フェンのことを。老いのことを。婚礼をフェンに見届けてもらうためだということを。
◆
ナーシャは、話を聞いている途中から、ぼろぼろと泣き出した。
「……ナーシャ」
「だって」とナーシャは言った。「だって、フェン……」
縁側で寝ていたフェンが、薄く目を開けた。
「泣くな、弟子」
「フェン!」
ナーシャが、フェンに駆け寄って、その首に抱きついた。
「フェン、まだ死なないで! 先生の婚礼、見て! それから、私が一人前になるのも見て! まだ全然、見てもらってないことがあるんだから!」
◆
フェンはしばらく、されるがままになっていた。
それから、ぽつりと言った。
「……欲張りな弟子だ」
「欲張りで何が悪いんですか!」
「悪くない」とフェンは言った。「欲張りなのは、いいことだ。生きたい理由が増える」
ナーシャがフェンの毛に顔を埋めたまま、頷いた。
◆
その日から、研究所は少しだけ変わった。
みんながフェンを中心に動くようになった。
ナーシャは薬草の手入れの合間に、必ずフェンの隣に座るようになった。患者のおばあさんたちも、フェンのことを聞きつけて、滋養のいい食べ物を持ってくるようになった。
「フェンさん、これお食べ」と腰痛のおばあさんが、煮込んだ肉を持ってきた。
「……すまんな、人間」
「いいんだよ。あんたには、世話になったからね」
◆
フェンが世話をした覚えはない、という顔をした。
「俺は、何もしていないが」
「いるだけで、世話なんだよ」とおばあさんは言った。「あんたがそこにいると、研究所があったかいんだ。それで十分、世話さ」
フェンが何も言わなかった。
ただ、おばあさんの持ってきた肉を、ゆっくりと食べた。
◆
夕方、私はフェンの隣に座って、その様子を話した。
「フェン。みんな、あなたのことが好きなんですね」
「……知らん」
「知らない、とは」
「俺は、ぶっきらぼうに生きてきた」とフェンは言った。「好かれるようなことは、していない。なのに——なぜこうなった」
私は少し笑った。
◆
「フェンは、気づいていないだけです」
「何にだ」
「あなたはいつも、誰かのそばにいました。私のそばに、ナーシャのそばに、患者のそばに。何も言わずに、ただいてくれた」
私はフェンの毛並みを撫でた。
「それが、どれだけ人を安心させるか。あなたは知らないだけです」
◆
フェンがしばらく、黙っていた。
冬の夕日が、縁側をゆっくりと染めていった。
「……エリーゼ」
「はい」
「俺は、いい人生だったと思うか」
私はその問いに、すぐに答えた。
「思います」
「即答だな」
「考えるまでもないので」と私は言った。「あなたはたくさんの人を、あたためました。それ以上に、いい人生がありますか」
◆
フェンがふっと息を吐いた。
それは安心したような息だった。
「……そうか」
「はい」
「なら、いい」とフェンは言った。「お前にそう言われるなら、いい人生だった」
冬の夕日が、最後の光をフェンの白い毛並みに落としていた。
その光は温かく、そして少しだけ寂しかった。
でも——今は、まだ。
フェンはここにいる。
私の隣に。
(第99話へ続く)




