カイル
翌朝、患者を一人診た後、ナーシャが顔を覗き込んできた。
「先生」
「はい」
「さっきから、一人で何か呟いていませんか」
私は少し止まった。
「……気のせいです」
「カイル、カイル、って」
「気のせいです」
ナーシャが笑った。「練習してたんですね」
◆
そうだ、と思う。
昨日の夜、部屋で何度か呼んでみた。カイル。カイル。
慣れない音だった。
七年間、ウィレム、と呼んだことは——今思えば、一度もなかった。あの家では、旦那様、と呼ぶのが常だった。
名前で、呼んだことが——なかった。
だからかもしれなかった。この単純な音が、少し特別なものに感じる。
◆
午後、王城から手紙が届いた。
厚みのある封筒に、王家の紋章の封蝋がついていた。
「……ナーシャ、これを」
「私が受け取っていいんですか」
「持っていてください。私が開けます」
ナーシャが両手で受け取った。大事な宝物みたいな持ち方をした。
封を開けると、丁寧な文字で書かれた文面があった。
——来月の上旬、王城にて女性貴族の集いを開催いたします。エリーゼ様にもご参加いただければ幸いです。
差出人は、王妃様からだった。
◆
フェンが縁側から「王妃か」と言った。
「カイルの、お母様です」
「知っている」
「……緊張します」
「するだろうな」
フェンは慰めるつもりが全くないようだった。
◆
夕方、カイルが来た。
手紙のことを話すと、「届きましたか」と言った。
「……知っていたのですか」
「来ると聞いていました。——緊張していますか」
「します」
「母は、怖い人ではないです」と彼は言った。「ただ——観察する人なので」
「観察」
「あなたがどういう人か、自分の目で確かめたいのだと思います。父からも、宮廷からも話は聞いたでしょうが——母は、自分で見たことしか信じないので」
◆
私はしばらく考えた。
「……どんな方に会えば、よいのでしょう」
「いつも通りのあなたで」とカイルは言った。「それだけです」
「カイル」
「はい」
「……その言葉、何度言うのですか」
「必要なだけ」と彼は少し笑った。「あなたが信じるまで」
フェンが「やれやれ」と言った。
「フェン、失礼です」
「褒めている」
◆
夜、ナーシャがお茶を持ってきた。
「先生、王妃様に会うんですね」
「来月」
「緊張しますね」
「します」
「でも、きっと大丈夫です」とナーシャは言った。「先生は、怖い人が来てもちゃんとしてるから」
「怖い人が来たことが、ありましたか」
「あります。二年前、宮廷医が視察に来たとき、先生、全然動じなかった」
私はあの日のことを思い出した。
「……あのときは、正しいことをしていると思っていたので」
「今回も、同じじゃないですか」
ナーシャが、さらりと言った。
◆
正しいことをしている——かどうかは、わからない。
でも、誰かに頼まれて来た婚約ではない。自分で決めた。
それは、確かだった。
「……そうですね」と私は言った。「同じかもしれません」
窓の外に、星が出ていた。
冬の星は、冷たく、でも、よく光っていた。
(第92話へ続く)




