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カイル

 翌朝、患者を一人診た後、ナーシャが顔を覗き込んできた。


「先生」


「はい」


「さっきから、一人で何か呟いていませんか」


 私は少し止まった。


「……気のせいです」


「カイル、カイル、って」


「気のせいです」


 ナーシャが笑った。「練習してたんですね」



 そうだ、と思う。


 昨日の夜、部屋で何度か呼んでみた。カイル。カイル。


 慣れない音だった。


 七年間、ウィレム、と呼んだことは——今思えば、一度もなかった。あの家では、旦那様、と呼ぶのが常だった。


 名前で、呼んだことが——なかった。


 だからかもしれなかった。この単純な音が、少し特別なものに感じる。



 午後、王城から手紙が届いた。


 厚みのある封筒に、王家の紋章の封蝋がついていた。


「……ナーシャ、これを」


「私が受け取っていいんですか」


「持っていてください。私が開けます」


 ナーシャが両手で受け取った。大事な宝物みたいな持ち方をした。


 封を開けると、丁寧な文字で書かれた文面があった。


 ——来月の上旬、王城にて女性貴族の集いを開催いたします。エリーゼ様にもご参加いただければ幸いです。


 差出人は、王妃様からだった。



 フェンが縁側から「王妃か」と言った。


「カイルの、お母様です」


「知っている」


「……緊張します」


「するだろうな」


 フェンは慰めるつもりが全くないようだった。



 夕方、カイルが来た。


 手紙のことを話すと、「届きましたか」と言った。


「……知っていたのですか」


「来ると聞いていました。——緊張していますか」


「します」


「母は、怖い人ではないです」と彼は言った。「ただ——観察する人なので」


「観察」


「あなたがどういう人か、自分の目で確かめたいのだと思います。父からも、宮廷からも話は聞いたでしょうが——母は、自分で見たことしか信じないので」



 私はしばらく考えた。


「……どんな方に会えば、よいのでしょう」


「いつも通りのあなたで」とカイルは言った。「それだけです」


「カイル」


「はい」


「……その言葉、何度言うのですか」


「必要なだけ」と彼は少し笑った。「あなたが信じるまで」


 フェンが「やれやれ」と言った。


「フェン、失礼です」


「褒めている」



 夜、ナーシャがお茶を持ってきた。


「先生、王妃様に会うんですね」


「来月」


「緊張しますね」


「します」


「でも、きっと大丈夫です」とナーシャは言った。「先生は、怖い人が来てもちゃんとしてるから」


「怖い人が来たことが、ありましたか」


「あります。二年前、宮廷医が視察に来たとき、先生、全然動じなかった」


 私はあの日のことを思い出した。


「……あのときは、正しいことをしていると思っていたので」


「今回も、同じじゃないですか」


 ナーシャが、さらりと言った。



 正しいことをしている——かどうかは、わからない。


 でも、誰かに頼まれて来た婚約ではない。自分で決めた。


 それは、確かだった。


「……そうですね」と私は言った。「同じかもしれません」


 窓の外に、星が出ていた。


 冬の星は、冷たく、でも、よく光っていた。


(第92話へ続く)

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