翌朝
翌朝も、いつも通りに起きた。
薬草の手入れをして、患者を診て——のつもりが、その日の研究所は少し違った。
朝から患者が、いつもより多かった。
「先生、昨日の発表、見ましたよ」と腰痛のおばあさんが言った。「立派でしたよ。きれいでした」
「……ありがとうございます」
「殿下も、ちゃんとそばにいてくれていましたね」
「はい。ずっと」
おばあさんが満足そうに頷いた。「それが一番大事だよ」
◆
昼前、大工の親方も来た。
手の傷の経過を見せながら、ぼそりと言った。
「……おめでとうございます」
「ありがとうございます」
「……先生、泣きませんでしたね」
「泣きませんでした」
「強いな」と親方は言った。「俺より強い」
私は少し笑ってしまった。
「腰が強かっただけです」
◆
昼食の時間、ナーシャが「昨日のこと、もっと聞かせてください」と言って、お茶を三杯飲みながら話を聞いた。
「広間に入ったとき、どんな気持ちでしたか」
「緊張していました」
「でも歩けた」
「歩けました」
「どうしてですか」
私は少し考えた。
「……フェンがついてきていたので」
フェンが縁側から「当然だ」と言った。
ナーシャが「かっこいい……」と言った。
◆
午後、殿下から手紙が届いた。
短い文面だった。
——昨日はお疲れ様でした。今日も研究所に行っていいですか。
私はしばらく、その文面を見た。
昨日、あれだけのことがあって。発表が終わって、宮廷の人たちに顔を覚えられて。
それでも、この人の手紙は、いつもこういう文面だった。
「……行っていいですよ」と、返事を書いた。
◆
殿下が来たのは、夕方だった。
いつもの門から入ってきて、いつもの縁側に座った。
私がお茶を出すと、殿下が受け取りながら言った。
「……昨日の絵、持って帰ってきましたか」
「持って帰りました。今は部屋に飾っています」
「よかった」
それだけだった。
特別なことは、何もなかった。縁側で、お茶を飲んで、フェンが伏せて、ナーシャが薬草を束ねた。
でも——一つだけ、違うことがあった。
◆
夕暮れ時、殿下が帰り際に言った。
「エリーゼさん」
「はい」
「昨日から——正式に、あなたは俺の婚約者です」
わかっていたことだった。でも、はっきり言葉にされると、少し違った。
「……はい」
「俺のことを、名前で呼んでもらえますか。婚約者として」
私は少し止まった。
殿下の名前は、知っている。でも——これまで一度も呼んだことがなかった。
「……カイル、殿下」
「殿下、は要りません」
「……カイル」
殿下が——カイルが、少し笑った。
「……ありがとうございます」
フェンが「やっと言えた」と言った。
「うるさいです」
◆
ナーシャが薬草を束ねる手を止めて、こちらを見ていた。
「……先生、今」
「聞こえていたのですか」
「全部」
ナーシャが嬉しそうに、でも少し泣きそうな顔をした。
「……よかった。先生に、名前で呼べる人ができて。よかったです」
私はしばらく、その言葉を受け取れなかった。
名前で呼べる人。
七年前の私には——いなかったものだ。
◆
その夜、一人で部屋に戻ったとき、机の上の絵を見た。
夏の庭。カップが二つ。
カイル、という名前を、口の中で小さく呼んでみた。
まだ、少し、照れた。
でも——悪くなかった。
窓の外は、もう暗い冬の空だった。
どこかで、風が鳴っていた。
(第91話へ続く)




