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翌朝

 翌朝も、いつも通りに起きた。


 薬草の手入れをして、患者を診て——のつもりが、その日の研究所は少し違った。


 朝から患者が、いつもより多かった。


「先生、昨日の発表、見ましたよ」と腰痛のおばあさんが言った。「立派でしたよ。きれいでした」


「……ありがとうございます」


「殿下も、ちゃんとそばにいてくれていましたね」


「はい。ずっと」


 おばあさんが満足そうに頷いた。「それが一番大事だよ」



 昼前、大工の親方も来た。


 手の傷の経過を見せながら、ぼそりと言った。


「……おめでとうございます」


「ありがとうございます」


「……先生、泣きませんでしたね」


「泣きませんでした」


「強いな」と親方は言った。「俺より強い」


 私は少し笑ってしまった。


「腰が強かっただけです」



 昼食の時間、ナーシャが「昨日のこと、もっと聞かせてください」と言って、お茶を三杯飲みながら話を聞いた。


「広間に入ったとき、どんな気持ちでしたか」


「緊張していました」


「でも歩けた」


「歩けました」


「どうしてですか」


 私は少し考えた。


「……フェンがついてきていたので」


 フェンが縁側から「当然だ」と言った。


 ナーシャが「かっこいい……」と言った。



 午後、殿下から手紙が届いた。


 短い文面だった。


 ——昨日はお疲れ様でした。今日も研究所に行っていいですか。


 私はしばらく、その文面を見た。


 昨日、あれだけのことがあって。発表が終わって、宮廷の人たちに顔を覚えられて。


 それでも、この人の手紙は、いつもこういう文面だった。


「……行っていいですよ」と、返事を書いた。



 殿下が来たのは、夕方だった。


 いつもの門から入ってきて、いつもの縁側に座った。


 私がお茶を出すと、殿下が受け取りながら言った。


「……昨日の絵、持って帰ってきましたか」


「持って帰りました。今は部屋に飾っています」


「よかった」


 それだけだった。


 特別なことは、何もなかった。縁側で、お茶を飲んで、フェンが伏せて、ナーシャが薬草を束ねた。


 でも——一つだけ、違うことがあった。



 夕暮れ時、殿下が帰り際に言った。


「エリーゼさん」


「はい」


「昨日から——正式に、あなたは俺の婚約者です」


 わかっていたことだった。でも、はっきり言葉にされると、少し違った。


「……はい」


「俺のことを、名前で呼んでもらえますか。婚約者として」


 私は少し止まった。


 殿下の名前は、知っている。でも——これまで一度も呼んだことがなかった。


「……カイル、殿下」


「殿下、は要りません」


「……カイル」


 殿下が——カイルが、少し笑った。


「……ありがとうございます」


 フェンが「やっと言えた」と言った。


「うるさいです」



 ナーシャが薬草を束ねる手を止めて、こちらを見ていた。


「……先生、今」


「聞こえていたのですか」


「全部」


 ナーシャが嬉しそうに、でも少し泣きそうな顔をした。


「……よかった。先生に、名前で呼べる人ができて。よかったです」


 私はしばらく、その言葉を受け取れなかった。


 名前で呼べる人。


 七年前の私には——いなかったものだ。



 その夜、一人で部屋に戻ったとき、机の上の絵を見た。


 夏の庭。カップが二つ。


 カイル、という名前を、口の中で小さく呼んでみた。


 まだ、少し、照れた。


 でも——悪くなかった。


 窓の外は、もう暗い冬の空だった。


 どこかで、風が鳴っていた。


(第91話へ続く)

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