婚約発表の日
朝、七時前に目が覚めた。
窓の外は薄く曇っていた。昨夜の初雪は積もらなかったが、庭の石畳の隅に、白いものが少しだけ残っていた。
深呼吸をした。今日だ、と思った。
◆
着替えを始めたとき、ナーシャが扉を叩いた。
「先生。起きてますか」
「起きています」
「お手伝いします」
扉を開けると、ナーシャがいつもより三割ほど固い顔をしていた。
「ナーシャ、緊張しているのは私より貴女では」
「してないです」
フェンが廊下から「している」と言った。
「フェン!」
「事実だ」
三人で(一人と一頭と一匹で)、なんとか朝の準備が進んだ。
◆
灰色のドレスを着ると、ナーシャがボタンを留めながら静かになった。
仕立て屋の女性の手で整えられた形が、今日もきちんと身体に合っていた。胸元の銀糸の薬草刺繍が、朝の光の中でかすかに光った。
「……先生、きれいです」とナーシャが言った。
「ナーシャ」
「本当のことです。ずるい。泣きそう」
「泣かないでください。朝から泣かれると困ります」
髪を整えて、殿下から贈られたかんざしを挿した。
小さな銀のかんざし。ラベンダーの花を模した、細かい細工のある。
鏡の中の自分を、しばらく見た。
派手ではない。でも——立っている人が、いる。
◆
八時きっかりに、馬車が来た。
フェンが当然のように乗り込もうとして、御者が少し驚いた顔をした。
「……フェンリルも、ご一緒に」
「連れていきます」と私は言った。
「当然だ」とフェンが言った。
ナーシャが玄関の前で、見送ってくれた。
「行ってらっしゃい、先生」
声が少し震えていた。
「帰ったら、話します。全部」
「待ってます」とナーシャは言った。「絶対、待ってます」
◆
王城は、以前に来たときより広く感じた。
儀礼係の方に案内されて、控え室に通された。白を基調にした静かな部屋で、窓の外に薄く雪の残る庭が見えた。
扉を開けた瞬間——壁の絵が目に入った。
小さな額縁が、一つ。
夏の研究所の庭。ラベンダーが咲いて、縁側に白いフェンが伏せていて、お茶のカップが、二つ。
私は、しばらくその前に立っていた。
フェンが隣に来て、絵を見た。
「……俺の毛並みの色が、正確だ」
「よく見て描かせたのでしょうね」
胸の奥が、静かに温かくなった。
ここに帰ってこられるように。どこにいても。
殿下がそう言っていた意味が、今、しっかりとわかった。
知らない天井の下でも——私には、帰る場所がある。
◆
殿下が迎えに来たのは、式の十分前だった。
扉を開けると、殿下が一歩止まった。
昨日と同じように、言葉を探す顔をした。
「……きれいです」
「昨日も同じことを」
「昨日とは違う状況なので」と殿下は言った。「繰り返す価値があります」
フェンが「同感だ」と言った。
こういうとき、フェンは殿下の味方をする。
◆
広間への廊下を、殿下の隣で歩いた。
フェンが一歩後ろについてきた。
「緊張していますか」と殿下が聞いた。
「します」
「俺もです」
少し驚いた。
「殿下も」
「大切な日なので」と殿下は言った。「当然です」
その言葉が、妙に、力になった。
◆
広間の扉が開いた。
たくさんの人が——見た。
貴族の顔、見知らぬ視線、重なる空気。
でも——私は、歩いた。
殿下の隣で、一歩ずつ、前に。
フェンが静かについて来た。その白い毛並みが、視界の端にあった。
歩くたびに、フェンの言葉が、足元で光るような気がした。
——七年耐えて、二年で立ち直って、自分で選んだ場所に立つ。
ここが、その場所だった。
誰かに立たされたのではなく。
自分で、来た。
◆
発表が終わったあと、殿下が小さな声で言った。
「……よく来てくれました」
「来ると言いましたから」
「エリーゼさん」
「はい」
「来てくれて——本当によかった」
私は、少しだけ笑った。
「……私も」
それだけで、十分だった。
◆
帰りの馬車の中で、フェンが私の膝に頭を乗せた。
いつもより重かった。長い一日だったから、疲れているのかもしれなかった。
「……フェン」
「なんだ」
「今日、ありがとう。そばにいてくれて」
「当然だ」とフェンは言った。「まだ、お前の相棒なのだから」
まだ、という言葉が少し気になったが、今日は問わないことにした。
◆
研究所に着くと、ナーシャが玄関の前で待っていた。
文字通り、外で。
「ナーシャ、外で待っていたのですか」
「五分前から」
私は笑ってしまった。
「話します。全部」
ナーシャが「聞きます!全部!」と言って、私の手を引っ張った。
◆
居間の暖炉に火を入れた。
フェンが定位置に伏せた。
ナーシャがお茶を用意しながら、今日のことを矢継ぎ早に聞いてきた。広間はどうだったか。たくさん人がいたか。殿下はかっこよかったか。
「かっこよかったです」
「やっぱり!」
窓の外に、薄い冬の光が落ちていた。
いつもの研究所。いつもの弟子。いつもの声。
でも——今日から少し、変わった。
七年前とは違う場所に、今、私はいる。
誰かに置かれたのではなく。自分で、選んだ場所に。
フェンが目を細めた。
「……よかった」
私は頷いた。
「……ええ。よかった」
暖炉の火が、静かに揺れていた。
(第90話へ続く)




