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婚約発表の日

 朝、七時前に目が覚めた。


 窓の外は薄く曇っていた。昨夜の初雪は積もらなかったが、庭の石畳の隅に、白いものが少しだけ残っていた。


 深呼吸をした。今日だ、と思った。



 着替えを始めたとき、ナーシャが扉を叩いた。


「先生。起きてますか」


「起きています」


「お手伝いします」


 扉を開けると、ナーシャがいつもより三割ほど固い顔をしていた。


「ナーシャ、緊張しているのは私より貴女では」


「してないです」


 フェンが廊下から「している」と言った。


「フェン!」


「事実だ」


 三人で(一人と一頭と一匹で)、なんとか朝の準備が進んだ。



 灰色のドレスを着ると、ナーシャがボタンを留めながら静かになった。


 仕立て屋の女性の手で整えられた形が、今日もきちんと身体に合っていた。胸元の銀糸の薬草刺繍が、朝の光の中でかすかに光った。


「……先生、きれいです」とナーシャが言った。


「ナーシャ」


「本当のことです。ずるい。泣きそう」


「泣かないでください。朝から泣かれると困ります」


 髪を整えて、殿下から贈られたかんざしを挿した。


 小さな銀のかんざし。ラベンダーの花を模した、細かい細工のある。


 鏡の中の自分を、しばらく見た。


 派手ではない。でも——立っている人が、いる。



 八時きっかりに、馬車が来た。


 フェンが当然のように乗り込もうとして、御者が少し驚いた顔をした。


「……フェンリルも、ご一緒に」


「連れていきます」と私は言った。


「当然だ」とフェンが言った。


 ナーシャが玄関の前で、見送ってくれた。


「行ってらっしゃい、先生」


 声が少し震えていた。


「帰ったら、話します。全部」


「待ってます」とナーシャは言った。「絶対、待ってます」



 王城は、以前に来たときより広く感じた。


 儀礼係の方に案内されて、控え室に通された。白を基調にした静かな部屋で、窓の外に薄く雪の残る庭が見えた。


 扉を開けた瞬間——壁の絵が目に入った。


 小さな額縁が、一つ。


 夏の研究所の庭。ラベンダーが咲いて、縁側に白いフェンが伏せていて、お茶のカップが、二つ。


 私は、しばらくその前に立っていた。


 フェンが隣に来て、絵を見た。


「……俺の毛並みの色が、正確だ」


「よく見て描かせたのでしょうね」


 胸の奥が、静かに温かくなった。


 ここに帰ってこられるように。どこにいても。


 殿下がそう言っていた意味が、今、しっかりとわかった。


 知らない天井の下でも——私には、帰る場所がある。



 殿下が迎えに来たのは、式の十分前だった。


 扉を開けると、殿下が一歩止まった。


 昨日と同じように、言葉を探す顔をした。


「……きれいです」


「昨日も同じことを」


「昨日とは違う状況なので」と殿下は言った。「繰り返す価値があります」


 フェンが「同感だ」と言った。


 こういうとき、フェンは殿下の味方をする。



 広間への廊下を、殿下の隣で歩いた。


 フェンが一歩後ろについてきた。


「緊張していますか」と殿下が聞いた。


「します」


「俺もです」


 少し驚いた。


「殿下も」


「大切な日なので」と殿下は言った。「当然です」


 その言葉が、妙に、力になった。



 広間の扉が開いた。


 たくさんの人が——見た。


 貴族の顔、見知らぬ視線、重なる空気。


 でも——私は、歩いた。


 殿下の隣で、一歩ずつ、前に。


 フェンが静かについて来た。その白い毛並みが、視界の端にあった。


 歩くたびに、フェンの言葉が、足元で光るような気がした。


 ——七年耐えて、二年で立ち直って、自分で選んだ場所に立つ。


 ここが、その場所だった。


 誰かに立たされたのではなく。


 自分で、来た。



 発表が終わったあと、殿下が小さな声で言った。


「……よく来てくれました」


「来ると言いましたから」


「エリーゼさん」


「はい」


「来てくれて——本当によかった」


 私は、少しだけ笑った。


「……私も」


 それだけで、十分だった。



 帰りの馬車の中で、フェンが私の膝に頭を乗せた。


 いつもより重かった。長い一日だったから、疲れているのかもしれなかった。


「……フェン」


「なんだ」


「今日、ありがとう。そばにいてくれて」


「当然だ」とフェンは言った。「まだ、お前の相棒なのだから」


 まだ、という言葉が少し気になったが、今日は問わないことにした。



 研究所に着くと、ナーシャが玄関の前で待っていた。


 文字通り、外で。


「ナーシャ、外で待っていたのですか」


「五分前から」


 私は笑ってしまった。


「話します。全部」


 ナーシャが「聞きます!全部!」と言って、私の手を引っ張った。



 居間の暖炉に火を入れた。


 フェンが定位置に伏せた。


 ナーシャがお茶を用意しながら、今日のことを矢継ぎ早に聞いてきた。広間はどうだったか。たくさん人がいたか。殿下はかっこよかったか。


「かっこよかったです」


「やっぱり!」


 窓の外に、薄い冬の光が落ちていた。


 いつもの研究所。いつもの弟子。いつもの声。


 でも——今日から少し、変わった。


 七年前とは違う場所に、今、私はいる。


 誰かに置かれたのではなく。自分で、選んだ場所に。


 フェンが目を細めた。


「……よかった」


 私は頷いた。


「……ええ。よかった」


 暖炉の火が、静かに揺れていた。


(第90話へ続く)

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