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第88話「いつも通りの日」

 発表の前日は、よく晴れた冬の日だった。


 朝、いつも通りに起きて、薬草の手入れをした。患者を三人診た。腰痛のおばあさんが「明日だね」と言って、薬と一緒に飴を一つ、私の手に握らせた。


「緊張したら、舐めるといいよ」


「……ありがとうございます」


「あたしらはここで応援してるからね」



 昼に、ナーシャと二人で食事をした。


 いつものパンと、いつものスープ。


「先生、明日の朝は早いんですよね」


「迎えの馬車が、朝の八時に来ます」


「じゃあ今日は早く寝ないと」


「ナーシャ、母親みたいです」


「弟子です」


 ナーシャがスープを飲みながら、少しだけ静かになった。


「……明日が終わったら、いろいろ変わるんですね」


「変わります。でも——変わらないものもあります」


「たとえば」


「このスープの味とか」


 ナーシャが笑った。「変わらないでくださいね、それは」



 午後、約束通り殿下が来た。


 手土産も、特別な話もなく、ただ来た。


 縁側に座って、お茶を出した。フェンが定位置に伏せた。ナーシャが薬草を束ねながら、時々こちらに話しかけた。


 いつも通りだった。


 完璧に、いつも通りだった。


「……平和ですね」と殿下が言った。


「平和です」


「明日、王城であなたの隣に立つのが俺で——本当によかったと思っています」


「どうして急に」


「いつも通りの日に、言っておきたかったので」



 夕方、四人で(フェンを入れて四人で)庭に出た。


 冬の庭は枯れ色だったが、ローズマリーだけが緑を保っていた。


 ナーシャが「あ」と言った。


「どうしましたか」


「雪」


 見上げると、空から白いものが、ひとつ、ふたつ、落ちてきていた。


 初雪だった。



 みんなで、しばらく空を見ていた。


 雪は積もるほどではなく、ただゆっくりと、庭に降りては消えた。


「……明日も降るでしょうか」と私は言った。


「降るかもしれません」と殿下が言った。「降ったら、それもきれいだと——前に言いましたね」


「言いました」


 フェンが鼻先を空に向けて、雪を一片、受け止めた。


「……冷たい」


「雪ですから」


「知っている」


 ナーシャが声を出して笑った。



 殿下が帰る時間になった。


 玄関まで送ると、殿下が振り返った。


「……では、明日」


「明日」


「迎えは八時に来ます。俺は王城で待っています。——控え室に、絵を飾っておきました」


「ありがとうございます」


 殿下が少し、間を置いた。


「エリーゼさん」


「はい」


「明日、あなたはたくさんの人の前に立ちます。でも——俺だけは、いつも通りのあなたを見ています。縁側でお茶を飲んでいるときと、同じ目で」


 私は頷いた。


「……はい。いつも通りで、行きます」



 夜、寝る前に、フェンが私の布団の足元に来た。


 いつもより、少し近かった。


「……フェン」


「なんだ」


「明日、そばにいてくださいね」


「当然だ。どこへでも行く」


 フェンの温かい重みが、足元にあった。


「……エリーゼ」


「はい」


「お前は、よくここまで来た」


 暗闇の中で、その言葉が静かに落ちた。


「七年耐えて、二年で立ち直って、明日——自分で選んだ場所に立つ。誇っていい」


 私は目を閉じた。


 目尻から、ひとつだけ、温かいものが落ちた。


「……ありがとう、フェン」


「寝ろ。明日は早い」


 窓の外で、初雪が静かに降り続いていた。


(第89話へ続く)

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