第88話「いつも通りの日」
発表の前日は、よく晴れた冬の日だった。
朝、いつも通りに起きて、薬草の手入れをした。患者を三人診た。腰痛のおばあさんが「明日だね」と言って、薬と一緒に飴を一つ、私の手に握らせた。
「緊張したら、舐めるといいよ」
「……ありがとうございます」
「あたしらはここで応援してるからね」
◆
昼に、ナーシャと二人で食事をした。
いつものパンと、いつものスープ。
「先生、明日の朝は早いんですよね」
「迎えの馬車が、朝の八時に来ます」
「じゃあ今日は早く寝ないと」
「ナーシャ、母親みたいです」
「弟子です」
ナーシャがスープを飲みながら、少しだけ静かになった。
「……明日が終わったら、いろいろ変わるんですね」
「変わります。でも——変わらないものもあります」
「たとえば」
「このスープの味とか」
ナーシャが笑った。「変わらないでくださいね、それは」
◆
午後、約束通り殿下が来た。
手土産も、特別な話もなく、ただ来た。
縁側に座って、お茶を出した。フェンが定位置に伏せた。ナーシャが薬草を束ねながら、時々こちらに話しかけた。
いつも通りだった。
完璧に、いつも通りだった。
「……平和ですね」と殿下が言った。
「平和です」
「明日、王城であなたの隣に立つのが俺で——本当によかったと思っています」
「どうして急に」
「いつも通りの日に、言っておきたかったので」
◆
夕方、四人で(フェンを入れて四人で)庭に出た。
冬の庭は枯れ色だったが、ローズマリーだけが緑を保っていた。
ナーシャが「あ」と言った。
「どうしましたか」
「雪」
見上げると、空から白いものが、ひとつ、ふたつ、落ちてきていた。
初雪だった。
◆
みんなで、しばらく空を見ていた。
雪は積もるほどではなく、ただゆっくりと、庭に降りては消えた。
「……明日も降るでしょうか」と私は言った。
「降るかもしれません」と殿下が言った。「降ったら、それもきれいだと——前に言いましたね」
「言いました」
フェンが鼻先を空に向けて、雪を一片、受け止めた。
「……冷たい」
「雪ですから」
「知っている」
ナーシャが声を出して笑った。
◆
殿下が帰る時間になった。
玄関まで送ると、殿下が振り返った。
「……では、明日」
「明日」
「迎えは八時に来ます。俺は王城で待っています。——控え室に、絵を飾っておきました」
「ありがとうございます」
殿下が少し、間を置いた。
「エリーゼさん」
「はい」
「明日、あなたはたくさんの人の前に立ちます。でも——俺だけは、いつも通りのあなたを見ています。縁側でお茶を飲んでいるときと、同じ目で」
私は頷いた。
「……はい。いつも通りで、行きます」
◆
夜、寝る前に、フェンが私の布団の足元に来た。
いつもより、少し近かった。
「……フェン」
「なんだ」
「明日、そばにいてくださいね」
「当然だ。どこへでも行く」
フェンの温かい重みが、足元にあった。
「……エリーゼ」
「はい」
「お前は、よくここまで来た」
暗闇の中で、その言葉が静かに落ちた。
「七年耐えて、二年で立ち直って、明日——自分で選んだ場所に立つ。誇っていい」
私は目を閉じた。
目尻から、ひとつだけ、温かいものが落ちた。
「……ありがとう、フェン」
「寝ろ。明日は早い」
窓の外で、初雪が静かに降り続いていた。
(第89話へ続く)




