第87話「仕上がりの日」
発表まで一週間を切った日、仕立屋から「仕上がりました」と連絡が来た。
殿下と二人で、馬車で街に向かった。フェンも当然のように乗り込んだ。
「フェンも試着するわけではないでしょう」
「監督する」
「監督」
「お前に似合わないものを着せられないか、見張る」
殿下が「頼もしいです」と言った。
◆
仕立屋の奥の部屋で、白髪の女性が衣装を広げた。
あの薄い灰色の生地が、美しいドレープのドレスになっていた。胸元に、約束通り薬草の刺繍。銀糸で、控えめに、でも確かに。
「……着てごらんなさい」
奥の間で着替えて、鏡の前に立った。
鏡の中の人を、私はしばらく見ていた。
派手ではない。けれど——きちんと、立っている人がいた。
◆
部屋に戻ると、殿下が立ち上がった。
何も言わなかった。しばらく、何も。
「……殿下」
「すみません。言葉を探していました」
「見つかりましたか」
「見つかりませんでした」と殿下は言った。「きれいです、という言葉では足りないので」
白髪の女性が「合格のようですね」と笑った。
フェンが私の周りを一周して、座った。
「……うむ」
「うむ、とは」
「お前らしい。それでいい」
◆
女性が最後の調整をしながら、針を持つ手を止めずに言った。
「……わたくしね、長くこの仕事をしておりますの」
「はい」
「婚約や婚礼の衣装を、何百と仕立ててきました。着る方の顔を見れば、だいたいわかります。幸せになる方かどうか」
針が、すっと布を通った。
「あなたは——大丈夫。鏡を見たとき、ご自分の目で立っていらした。誰かに見られる顔ではなくて、ご自分で選んだ顔をしていらした」
◆
帰りの馬車で、私はその言葉を考えていた。
自分で選んだ顔。
七年前の婚礼のときの私は——どんな顔をしていただろう。覚えていない。あのときの衣装も、式の段取りも、全部、家門同士が決めた。私はただ、着せられて、立たされて、頷いていた。
「……何を考えていますか」と殿下が聞いた。
「昔の婚礼のことを、少し。——覚えていないな、と思って」
「忘れたままでいいと思います」
「ええ。ただ——今回は、覚えていようと思いました。全部」
◆
殿下がしばらく、私を見た。
「……一つ、提案があります」
「なんですか」
「発表の前日、何も予定を入れていません。儀礼の練習も、準備も、全部終わらせてあります。——その日は、いつも通りに過ごしませんか」
「いつも通り、というと」
「俺が午後に来て、縁側でお茶を飲んで、フェンリルが文句を言って、ナーシャさんが笑って——それだけの日に」
私は少し、笑ってしまった。
「それが提案ですか」
「重要な提案です」
「……いいですね。そうしましょう」
◆
研究所に戻ると、ナーシャが「おかえりなさい! どうでしたか衣装!」と飛んできた。
「仕上がっていました」
「見たい! 当日まで見られないんですか!?」
「当日のお楽しみです」
「ええー」
フェンが「いいものだった」と言った。
「フェンだけ見たのずるい!」
「監督だからだ」
夕暮れの研究所に、いつもの声が響いていた。
あと一週間。
この「いつも」を抱えたまま、行こうと思った。
(第88話へ続く)




