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第87話「仕上がりの日」

 発表まで一週間を切った日、仕立屋から「仕上がりました」と連絡が来た。


 殿下と二人で、馬車で街に向かった。フェンも当然のように乗り込んだ。


「フェンも試着するわけではないでしょう」


「監督する」


「監督」


「お前に似合わないものを着せられないか、見張る」


 殿下が「頼もしいです」と言った。



 仕立屋の奥の部屋で、白髪の女性が衣装を広げた。


 あの薄い灰色の生地が、美しいドレープのドレスになっていた。胸元に、約束通り薬草の刺繍。銀糸で、控えめに、でも確かに。


「……着てごらんなさい」


 奥の間で着替えて、鏡の前に立った。


 鏡の中の人を、私はしばらく見ていた。


 派手ではない。けれど——きちんと、立っている人がいた。



 部屋に戻ると、殿下が立ち上がった。


 何も言わなかった。しばらく、何も。


「……殿下」


「すみません。言葉を探していました」


「見つかりましたか」


「見つかりませんでした」と殿下は言った。「きれいです、という言葉では足りないので」


 白髪の女性が「合格のようですね」と笑った。


 フェンが私の周りを一周して、座った。


「……うむ」


「うむ、とは」


「お前らしい。それでいい」



 女性が最後の調整をしながら、針を持つ手を止めずに言った。


「……わたくしね、長くこの仕事をしておりますの」


「はい」


「婚約や婚礼の衣装を、何百と仕立ててきました。着る方の顔を見れば、だいたいわかります。幸せになる方かどうか」


 針が、すっと布を通った。


「あなたは——大丈夫。鏡を見たとき、ご自分の目で立っていらした。誰かに見られる顔ではなくて、ご自分で選んだ顔をしていらした」



 帰りの馬車で、私はその言葉を考えていた。


 自分で選んだ顔。


 七年前の婚礼のときの私は——どんな顔をしていただろう。覚えていない。あのときの衣装も、式の段取りも、全部、家門同士が決めた。私はただ、着せられて、立たされて、頷いていた。


「……何を考えていますか」と殿下が聞いた。


「昔の婚礼のことを、少し。——覚えていないな、と思って」


「忘れたままでいいと思います」


「ええ。ただ——今回は、覚えていようと思いました。全部」



 殿下がしばらく、私を見た。


「……一つ、提案があります」


「なんですか」


「発表の前日、何も予定を入れていません。儀礼の練習も、準備も、全部終わらせてあります。——その日は、いつも通りに過ごしませんか」


「いつも通り、というと」


「俺が午後に来て、縁側でお茶を飲んで、フェンリルが文句を言って、ナーシャさんが笑って——それだけの日に」


 私は少し、笑ってしまった。


「それが提案ですか」


「重要な提案です」


「……いいですね。そうしましょう」



 研究所に戻ると、ナーシャが「おかえりなさい! どうでしたか衣装!」と飛んできた。


「仕上がっていました」


「見たい! 当日まで見られないんですか!?」


「当日のお楽しみです」


「ええー」


 フェンが「いいものだった」と言った。


「フェンだけ見たのずるい!」


「監督だからだ」


 夕暮れの研究所に、いつもの声が響いていた。


 あと一週間。


 この「いつも」を抱えたまま、行こうと思った。


(第88話へ続く)

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