表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
86/182

第86話「雪の前の日々」

 婚約発表まで、あと二週間ほどになった。


 研究所の毎日は、表向きはいつも通りだった。朝、薬草の手入れをして、患者を診て、昼にナーシャと食事をして、午後は調合と記録。夕方に殿下が来る日は、縁側でお茶を飲む。


 でも——少しずつ、準備は進んでいた。


 王城から、儀礼の係の方が二度来た。発表当日の段取り、立つ位置、挨拶の言葉。覚えることは多かったが、思ったより淡々と進んだ。


「飲み込みが早くていらっしゃる」と係の方が言った。


「……七年間、家門の行事を取り仕切っていたので」


「なるほど」


 昔の経験が、こんなところで役に立つとは思わなかった。


 人生は、無駄になるものが——案外、少ないのかもしれない。



 ある朝、ナーシャが研究所の薬棚の前で、難しい顔をして立っていた。


「どうしましたか」


「……先生。王城に行ったら、この棚、どうなるんでしょう」


「棚?」


「この研究所のこと、全部です。患者さんたちとか、薬草園とか、この棚の並び順とか」


 私は隣に立って、棚を見た。


 二年かけて作った棚だった。よく使う薬草は手の届く位置に。毒性のあるものは鍵のかかる上段に。ナーシャがまだ背が届かなかった頃、踏み台を置いた角の擦り跡が、まだ床に残っている。


「……ここは、残します。前に殿下と話しました」


「残して、誰が使うんですか」


「週に何日かは、私が通います。それ以外の日は——ナーシャ、あなたが」


 ナーシャが、目を丸くした。


「私が!?」


「あなたが」


「無理ですよ! 私まだ、調合だって半分くらいしか——」


「半分できれば、町の患者さんの八割は診られます」と私は言った。「残りの二割は、私が通う日に回せばいい。それに——一年後には、半分が七割になっています。あなたは、伸びている途中なので」



 ナーシャはしばらく黙って、棚を見ていた。


「……先生は、ずるいです」


「ずるい?」


「そうやって、私が断れない言い方をする」


「事実を言っただけです」


「そういうところが、ずるいんです」


 そう言いながら、ナーシャの目は赤かった。でも、口元は笑っていた。


「……わかりました。やります。やってみます」


「お願いします」


「でも、わからないことがあったら、すぐ手紙書きますから。王城だろうとなんだろうと、容赦なく書きますから」


「容赦なく、どうぞ」


 フェンが縁側から「いい弟子だ」と言った。


 ナーシャが「フェンに褒められた!」と言って、その日は一日、機嫌がよかった。



 午後、患者の途切れた時間に、一人で薬草園に出た。


 冬の薬草園は、静かだった。


 ラベンダーは枯れて、根だけが土の下で春を待っている。ローズマリーは寒さに強いので、まだ緑が残っていた。隅の方には、最初の年に植えて失敗した薬草の区画があって、今は別のものが植わっている。


 ここで、立ち直った。


 離縁状を受け取って、家門にも居場所がなくて、わずかな持参金の返金だけを持ってこの町に来た。最初の夜、この家の床で、毛布にくるまって眠った。寒くて、心細くて、でも——不思議と、清々しかった。


 誰の顔色も、窺わなくていい。


 明日から何をするかを、自分で決めていい。


 あの夜の清々しさを、今でも覚えている。



 フェンが、いつの間にか隣に来ていた。


「……懐かしんでいるのか」


「少し」


「お前がここに来た日のことを、俺も覚えている」


「フェンと会ったのは、その少し後ですね」


「ああ。山で薬草を採っていたお前が、罠にかかった俺を見つけた」


 私は思い出して、少し笑った。


「あのとき、フェンは『触るな』と言いました」


「言った」


「でも私が罠を外している間、一度も唸らなかった」


「……唸る理由がなかった。お前の手つきが、丁寧だったから」


 フェンの銀色の毛が、冬の薄い日差しの中で光っていた。


「あのとき、お前は俺に名前も聞かず、礼も求めず、薬だけ塗って帰ろうとした。だから——ついて行くことにした」


「今、初めて聞きました。その理由」


「今、初めて言った」



 夕方、殿下が来た。


 今日は少し荷物があった。布に包まれた、平たい箱のようなもの。


「……何ですか、それは」


「発表の日の、あなたの控え室に飾るものです。先に見てもらいたくて」


 縁側で包みを開くと——絵だった。


 小さな額に入った、水彩の絵。この研究所の庭が描かれていた。夏の庭。ラベンダーが咲いて、縁側に白いフェンが伏せていて、その隣に、お茶のカップが二つ。


「……これは」


「王城の絵師に頼みました。俺が言葉で説明して、描いてもらったものです」


「言葉で——この庭を?」


「何度も来ているので」と殿下は言った。「目を閉じれば、だいたい描けます。ラベンダーの位置も、縁側の板の数も」



 私は絵を、しばらく見ていた。


 カップが二つ、描かれている。


「……どうして、控え室に」


「発表の日、あなたは王城の真ん中で、知らない人に囲まれます。緊張する瞬間も、心細くなる瞬間もあると思います。そのとき——控え室に戻れば、これがある」


 殿下が静かに言った。


「ここに帰ってこられるように。——どこにいても」


 私は、言葉が出なかった。


 目の奥が熱くなって、絵がにじんだ。


「……泣いていいですよ」と殿下が言った。


「泣きません」


「そうですか」


「……少しだけ、泣くかもしれません」


 フェンが「泣いている」と言った。


「うるさいです」



 ナーシャが帰ったあと、殿下と二人で、夕暮れの庭を見た。


「……二週間後ですね」と私は言った。


「はい」


「私、ちゃんとできるでしょうか」


「できます」と殿下は言った。「でも、できなくてもいいです」


「できなくても?」


「言葉に詰まったら、俺が継ぎます。歩く速さがわからなくなったら、俺が合わせます。あなたは——いつも通りの、あなたでいてください。それが一番いいので」


 私は頷いた。


 空の端で、冬の一番星が光り始めていた。


「……雪が降るでしょうか、当日」


「降るかもしれません。降ったら——それも、きれいだと思います」


「そうですね」


 雪の日も、雨の日も、晴れの日も。


 この人は来てくれた。今度は——私が、行く番だった。


(第87話へ続く)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ