第86話「雪の前の日々」
婚約発表まで、あと二週間ほどになった。
研究所の毎日は、表向きはいつも通りだった。朝、薬草の手入れをして、患者を診て、昼にナーシャと食事をして、午後は調合と記録。夕方に殿下が来る日は、縁側でお茶を飲む。
でも——少しずつ、準備は進んでいた。
王城から、儀礼の係の方が二度来た。発表当日の段取り、立つ位置、挨拶の言葉。覚えることは多かったが、思ったより淡々と進んだ。
「飲み込みが早くていらっしゃる」と係の方が言った。
「……七年間、家門の行事を取り仕切っていたので」
「なるほど」
昔の経験が、こんなところで役に立つとは思わなかった。
人生は、無駄になるものが——案外、少ないのかもしれない。
◆
ある朝、ナーシャが研究所の薬棚の前で、難しい顔をして立っていた。
「どうしましたか」
「……先生。王城に行ったら、この棚、どうなるんでしょう」
「棚?」
「この研究所のこと、全部です。患者さんたちとか、薬草園とか、この棚の並び順とか」
私は隣に立って、棚を見た。
二年かけて作った棚だった。よく使う薬草は手の届く位置に。毒性のあるものは鍵のかかる上段に。ナーシャがまだ背が届かなかった頃、踏み台を置いた角の擦り跡が、まだ床に残っている。
「……ここは、残します。前に殿下と話しました」
「残して、誰が使うんですか」
「週に何日かは、私が通います。それ以外の日は——ナーシャ、あなたが」
ナーシャが、目を丸くした。
「私が!?」
「あなたが」
「無理ですよ! 私まだ、調合だって半分くらいしか——」
「半分できれば、町の患者さんの八割は診られます」と私は言った。「残りの二割は、私が通う日に回せばいい。それに——一年後には、半分が七割になっています。あなたは、伸びている途中なので」
◆
ナーシャはしばらく黙って、棚を見ていた。
「……先生は、ずるいです」
「ずるい?」
「そうやって、私が断れない言い方をする」
「事実を言っただけです」
「そういうところが、ずるいんです」
そう言いながら、ナーシャの目は赤かった。でも、口元は笑っていた。
「……わかりました。やります。やってみます」
「お願いします」
「でも、わからないことがあったら、すぐ手紙書きますから。王城だろうとなんだろうと、容赦なく書きますから」
「容赦なく、どうぞ」
フェンが縁側から「いい弟子だ」と言った。
ナーシャが「フェンに褒められた!」と言って、その日は一日、機嫌がよかった。
◆
午後、患者の途切れた時間に、一人で薬草園に出た。
冬の薬草園は、静かだった。
ラベンダーは枯れて、根だけが土の下で春を待っている。ローズマリーは寒さに強いので、まだ緑が残っていた。隅の方には、最初の年に植えて失敗した薬草の区画があって、今は別のものが植わっている。
ここで、立ち直った。
離縁状を受け取って、家門にも居場所がなくて、わずかな持参金の返金だけを持ってこの町に来た。最初の夜、この家の床で、毛布にくるまって眠った。寒くて、心細くて、でも——不思議と、清々しかった。
誰の顔色も、窺わなくていい。
明日から何をするかを、自分で決めていい。
あの夜の清々しさを、今でも覚えている。
◆
フェンが、いつの間にか隣に来ていた。
「……懐かしんでいるのか」
「少し」
「お前がここに来た日のことを、俺も覚えている」
「フェンと会ったのは、その少し後ですね」
「ああ。山で薬草を採っていたお前が、罠にかかった俺を見つけた」
私は思い出して、少し笑った。
「あのとき、フェンは『触るな』と言いました」
「言った」
「でも私が罠を外している間、一度も唸らなかった」
「……唸る理由がなかった。お前の手つきが、丁寧だったから」
フェンの銀色の毛が、冬の薄い日差しの中で光っていた。
「あのとき、お前は俺に名前も聞かず、礼も求めず、薬だけ塗って帰ろうとした。だから——ついて行くことにした」
「今、初めて聞きました。その理由」
「今、初めて言った」
◆
夕方、殿下が来た。
今日は少し荷物があった。布に包まれた、平たい箱のようなもの。
「……何ですか、それは」
「発表の日の、あなたの控え室に飾るものです。先に見てもらいたくて」
縁側で包みを開くと——絵だった。
小さな額に入った、水彩の絵。この研究所の庭が描かれていた。夏の庭。ラベンダーが咲いて、縁側に白いフェンが伏せていて、その隣に、お茶のカップが二つ。
「……これは」
「王城の絵師に頼みました。俺が言葉で説明して、描いてもらったものです」
「言葉で——この庭を?」
「何度も来ているので」と殿下は言った。「目を閉じれば、だいたい描けます。ラベンダーの位置も、縁側の板の数も」
◆
私は絵を、しばらく見ていた。
カップが二つ、描かれている。
「……どうして、控え室に」
「発表の日、あなたは王城の真ん中で、知らない人に囲まれます。緊張する瞬間も、心細くなる瞬間もあると思います。そのとき——控え室に戻れば、これがある」
殿下が静かに言った。
「ここに帰ってこられるように。——どこにいても」
私は、言葉が出なかった。
目の奥が熱くなって、絵がにじんだ。
「……泣いていいですよ」と殿下が言った。
「泣きません」
「そうですか」
「……少しだけ、泣くかもしれません」
フェンが「泣いている」と言った。
「うるさいです」
◆
ナーシャが帰ったあと、殿下と二人で、夕暮れの庭を見た。
「……二週間後ですね」と私は言った。
「はい」
「私、ちゃんとできるでしょうか」
「できます」と殿下は言った。「でも、できなくてもいいです」
「できなくても?」
「言葉に詰まったら、俺が継ぎます。歩く速さがわからなくなったら、俺が合わせます。あなたは——いつも通りの、あなたでいてください。それが一番いいので」
私は頷いた。
空の端で、冬の一番星が光り始めていた。
「……雪が降るでしょうか、当日」
「降るかもしれません。降ったら——それも、きれいだと思います」
「そうですね」
雪の日も、雨の日も、晴れの日も。
この人は来てくれた。今度は——私が、行く番だった。
(第87話へ続く)




