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第85話「片がついた話」

 数日後、殿下が来た。


 玄関先で顔を見た瞬間、わかった。何かが終わった顔をしていた。


「……片がつきましたか」


「つきました」


 縁側に座って、お茶を出した。フェンが定位置に伏せて、ナーシャは少し離れたところで薬草を束ねながら、耳だけこちらに向けていた。



「噂の出所は、二つありました」と殿下が言った。


「二つ」


「一つは、宮廷内の一部の家門。あなたの過去を調べて、面白おかしく脚色して流した者たちです。こちらは——父上の耳に入れました」


「陛下の」


「父上は、ああいうことを最も嫌う方なので。該当する家門には、正式に注意が行きました。表立った動きは、もうできないはずです」


 淡々とした言い方だった。でも、その淡々の裏にどれだけの動きがあったのかは——想像がついた。



「もう一つは」と殿下が少し、言いにくそうにした。


「はい」


「……ハイドリヒ家の周辺です」


 ハイドリヒ。


 元夫の——ウィレムの家門だった。


「あの家は今、商売が傾いています。それで——あなたと俺の話を聞きつけて、繋がりを取り戻せないかと動いた者がいたようです。それが失敗して、逆恨みのような形で噂に変わった」



 私はしばらく、黙っていた。


 怒りでも、悲しみでもなかった。ただ——遠いな、と思った。


 あの家の中で生きていた七年間が、知らない国の話のように遠かった。


「……そうですか」


「それだけですか」と殿下が少し意外そうに言った。


「それだけです。——もう、あの家の事情は、私の事情ではないので」


 フェンが「よく言った」と言った。



「一つだけ、確認させてください」と殿下が言った。「ハイドリヒ家への対処は、最小限にしてあります。商売の件には手を出していません。——それでよかったですか」


「と、いうと」


「俺の立場なら、あの家を潰すこともできます。でも——しませんでした。あなたが、それを望まないと思ったので」


 私は少し、驚いた。


「……どうして、そう思ったのですか」


「あなたは、過去に勝ちたい人ではなく——過去から自由になりたい人だからです。潰せば、繋がりが残る。放っておけば、ただ遠ざかっていく」



 私はその言葉を、しばらく胸の中に置いた。


 この人は、本当に——よく見ている。


「……その通りです」と私は言った。「ありがとうございます。私の望む形にしてくださって」


「あなたのことだけは、間違えたくないので」


 殿下がそう言って、お茶を飲んだ。


 ナーシャが薬草を束ねる手を止めて、小声で「かっこいい……」と言った。


「ナーシャ、聞こえています」


「だってえ」



 夕方、殿下を見送りに庭に出た。


 冬の夕暮れは早い。空の端が、もう藍色になっていた。


「……これで、発表の前の片づけは終わりました」と殿下が言った。「あとは——当日を待つだけです」


「十二月の」


「はい。あと三週間ほどです」


 三週間。


 そのあとは、何かが変わる。何が変わるのかは、まだ全部はわからない。


「……緊張しますか」と殿下が聞いた。


「します。でも」


「でも」


「楽しみでもあります。少しだけ」


 殿下が、ふわりと笑った。


 あまり見ない種類の、年相応の笑い方だった。


「……俺は、かなり楽しみです」


「かなり、ですか」


「かなり、です」


 冬の風は冷たかったのに、帰っていく背中を見送る間——胸のあたりだけ、ずっと温かかった。


(第86話へ続く)

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