第85話「片がついた話」
数日後、殿下が来た。
玄関先で顔を見た瞬間、わかった。何かが終わった顔をしていた。
「……片がつきましたか」
「つきました」
縁側に座って、お茶を出した。フェンが定位置に伏せて、ナーシャは少し離れたところで薬草を束ねながら、耳だけこちらに向けていた。
◆
「噂の出所は、二つありました」と殿下が言った。
「二つ」
「一つは、宮廷内の一部の家門。あなたの過去を調べて、面白おかしく脚色して流した者たちです。こちらは——父上の耳に入れました」
「陛下の」
「父上は、ああいうことを最も嫌う方なので。該当する家門には、正式に注意が行きました。表立った動きは、もうできないはずです」
淡々とした言い方だった。でも、その淡々の裏にどれだけの動きがあったのかは——想像がついた。
◆
「もう一つは」と殿下が少し、言いにくそうにした。
「はい」
「……ハイドリヒ家の周辺です」
ハイドリヒ。
元夫の——ウィレムの家門だった。
「あの家は今、商売が傾いています。それで——あなたと俺の話を聞きつけて、繋がりを取り戻せないかと動いた者がいたようです。それが失敗して、逆恨みのような形で噂に変わった」
◆
私はしばらく、黙っていた。
怒りでも、悲しみでもなかった。ただ——遠いな、と思った。
あの家の中で生きていた七年間が、知らない国の話のように遠かった。
「……そうですか」
「それだけですか」と殿下が少し意外そうに言った。
「それだけです。——もう、あの家の事情は、私の事情ではないので」
フェンが「よく言った」と言った。
◆
「一つだけ、確認させてください」と殿下が言った。「ハイドリヒ家への対処は、最小限にしてあります。商売の件には手を出していません。——それでよかったですか」
「と、いうと」
「俺の立場なら、あの家を潰すこともできます。でも——しませんでした。あなたが、それを望まないと思ったので」
私は少し、驚いた。
「……どうして、そう思ったのですか」
「あなたは、過去に勝ちたい人ではなく——過去から自由になりたい人だからです。潰せば、繋がりが残る。放っておけば、ただ遠ざかっていく」
◆
私はその言葉を、しばらく胸の中に置いた。
この人は、本当に——よく見ている。
「……その通りです」と私は言った。「ありがとうございます。私の望む形にしてくださって」
「あなたのことだけは、間違えたくないので」
殿下がそう言って、お茶を飲んだ。
ナーシャが薬草を束ねる手を止めて、小声で「かっこいい……」と言った。
「ナーシャ、聞こえています」
「だってえ」
◆
夕方、殿下を見送りに庭に出た。
冬の夕暮れは早い。空の端が、もう藍色になっていた。
「……これで、発表の前の片づけは終わりました」と殿下が言った。「あとは——当日を待つだけです」
「十二月の」
「はい。あと三週間ほどです」
三週間。
そのあとは、何かが変わる。何が変わるのかは、まだ全部はわからない。
「……緊張しますか」と殿下が聞いた。
「します。でも」
「でも」
「楽しみでもあります。少しだけ」
殿下が、ふわりと笑った。
あまり見ない種類の、年相応の笑い方だった。
「……俺は、かなり楽しみです」
「かなり、ですか」
「かなり、です」
冬の風は冷たかったのに、帰っていく背中を見送る間——胸のあたりだけ、ずっと温かかった。
(第86話へ続く)




