第84話「常連たち」
翌日の研究所は、いつも通りに患者が来た。
最初に来たのは、腰痛の常連のおばあさんだった。
薬を渡すと、おばあさんは受け取りながら——少し改まった顔をした。
「……先生、市場で変な噂が流れてるの、知ってるかい」
「……はい。少し」
「あたしゃ言っといたよ。先生がどういう人かは、薬をもらってる者が一番よく知ってるってね」
◆
私は少し、言葉が出なかった。
「……ありがとうございます」
「礼なんていらないよ。本当のことだもの」
おばあさんが薬の包みを大事そうに抱えた。
「七年だか何だか知らないけどね、あたしが知ってるのは——夜中に孫の熱で駆け込んだとき、嫌な顔ひとつしないで診てくれた先生だけだよ」
◆
昼前には、大工の親方が来た。
手の傷の手当てに来たのだが、帰り際に、ぼそりと言った。
「……先生。妙なこと言う奴がいたら、俺に言ってくれ」
「妙なこと、ですか」
「町の連中はみんな先生の世話になってる。恩知らずな噂話なんざ、俺が黙らせる」
「……お気持ちだけ、いただきます」
「気持ちだけじゃねえよ」と親方は言った。「先生は、うちのかみさんの命の恩人だ。忘れてねえからな」
◆
午後、ナーシャが目を赤くしていた。
「どうしましたか」
「……だって、みんな、先生の味方なんだなって」
「泣くことではないです」
「泣いてないです」
フェンが縁側から「泣いている」と言った。
「泣いてないってば!」
◆
夕方、殿下が来た。
今日あったことを話すと、殿下はしばらく黙って聞いていた。
それから、静かに言った。
「……それが、あなたが二年かけて築いたものですね」
「築いた、というつもりはなかったのですが」
「だからこそです」と殿下は言った。「策で得た評判は、策で崩れます。でも——日々の積み重ねで得た信頼は、噂程度では崩れない」
◆
「王城の連中が過去を掘り返しても」と殿下は続けた。「この町には、あなたの今を知っている人が大勢いる。それは——どんな弁明よりも強いです」
私はしばらく、庭を見た。
二年前、ここに来たとき——私には何もなかった。家門も、肩書きも、守ってくれる人も。
でも今は、ある。
薬を待つ人がいて、弟子がいて、フェンがいて、この人がいる。
「……不思議です」と私は言った。
「何がですか」
「守られるために何かをしたわけではないのに——気がつけば、守られていました」
◆
フェンが私の隣に来て、頭を膝に乗せた。
「……お前が先に守ったからだ」
「私が?」
「夜中に薬を作り、雨の日に患者の家まで行き、金のない者からは取らなかった。お前は覚えていなくても、町は覚えている」
私はフェンの頭を、ゆっくり撫でた。
温かい毛並みが、手のひらに馴染んだ。
「……そういうものですか」
「そういうものだ」
◆
殿下が帰り際、玄関で振り返った。
「……噂の件、出所はほぼ特定できました。近いうちに、片がつきます」
「無理は」
「していません。約束したので」
殿下が少し笑って、それから真顔に戻った。
「エリーゼさん。——あなたは、思っているよりずっと、多くの人に大切にされています。それを、忘れないでください」
私は頷いた。
「……はい。今日、よくわかりました」
冬の入り口の風が、庭のラベンダーの枯れ枝を静かに揺らしていた。
春になれば、また咲く。
その確かさに似たものが——今は、私の中にもあった。
(第85話へ続く)




