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第84話「常連たち」

 翌日の研究所は、いつも通りに患者が来た。


 最初に来たのは、腰痛の常連のおばあさんだった。


 薬を渡すと、おばあさんは受け取りながら——少し改まった顔をした。


「……先生、市場で変な噂が流れてるの、知ってるかい」


「……はい。少し」


「あたしゃ言っといたよ。先生がどういう人かは、薬をもらってる者が一番よく知ってるってね」



 私は少し、言葉が出なかった。


「……ありがとうございます」


「礼なんていらないよ。本当のことだもの」


 おばあさんが薬の包みを大事そうに抱えた。


「七年だか何だか知らないけどね、あたしが知ってるのは——夜中に孫の熱で駆け込んだとき、嫌な顔ひとつしないで診てくれた先生だけだよ」



 昼前には、大工の親方が来た。


 手の傷の手当てに来たのだが、帰り際に、ぼそりと言った。


「……先生。妙なこと言う奴がいたら、俺に言ってくれ」


「妙なこと、ですか」


「町の連中はみんな先生の世話になってる。恩知らずな噂話なんざ、俺が黙らせる」


「……お気持ちだけ、いただきます」


「気持ちだけじゃねえよ」と親方は言った。「先生は、うちのかみさんの命の恩人だ。忘れてねえからな」



 午後、ナーシャが目を赤くしていた。


「どうしましたか」


「……だって、みんな、先生の味方なんだなって」


「泣くことではないです」


「泣いてないです」


 フェンが縁側から「泣いている」と言った。


「泣いてないってば!」



 夕方、殿下が来た。


 今日あったことを話すと、殿下はしばらく黙って聞いていた。


 それから、静かに言った。


「……それが、あなたが二年かけて築いたものですね」


「築いた、というつもりはなかったのですが」


「だからこそです」と殿下は言った。「策で得た評判は、策で崩れます。でも——日々の積み重ねで得た信頼は、噂程度では崩れない」



「王城の連中が過去を掘り返しても」と殿下は続けた。「この町には、あなたの今を知っている人が大勢いる。それは——どんな弁明よりも強いです」


 私はしばらく、庭を見た。


 二年前、ここに来たとき——私には何もなかった。家門も、肩書きも、守ってくれる人も。


 でも今は、ある。


 薬を待つ人がいて、弟子がいて、フェンがいて、この人がいる。


「……不思議です」と私は言った。


「何がですか」


「守られるために何かをしたわけではないのに——気がつけば、守られていました」



 フェンが私の隣に来て、頭を膝に乗せた。


「……お前が先に守ったからだ」


「私が?」


「夜中に薬を作り、雨の日に患者の家まで行き、金のない者からは取らなかった。お前は覚えていなくても、町は覚えている」


 私はフェンの頭を、ゆっくり撫でた。


 温かい毛並みが、手のひらに馴染んだ。


「……そういうものですか」


「そういうものだ」



 殿下が帰り際、玄関で振り返った。


「……噂の件、出所はほぼ特定できました。近いうちに、片がつきます」


「無理は」


「していません。約束したので」


 殿下が少し笑って、それから真顔に戻った。


「エリーゼさん。——あなたは、思っているよりずっと、多くの人に大切にされています。それを、忘れないでください」


 私は頷いた。


「……はい。今日、よくわかりました」


 冬の入り口の風が、庭のラベンダーの枯れ枝を静かに揺らしていた。


 春になれば、また咲く。


 その確かさに似たものが——今は、私の中にもあった。


(第85話へ続く)

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