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第83話「町の声」

 その日、薬草の買い出しで市場に出かけた。


 フェンが隣を歩いていた。


 秋も終わりの市場は、根菜と保存食が多くなる時期だった。いつもの薬草商の棚を見ていると——隣の布屋の方から、声が聞こえた。


 聞こえてしまった、という方が正確だった。



「……そういえば、薬師のエリーゼ先生って、以前は別の家門に嫁いでいたんですって」


「知ってる知ってる。離縁されたって話でしょ」


「でもあれって、向こうに愛人の子ができたからじゃないの」


「そうそう。ちょっとかわいそうよね。そんな方が王子様と——」


 声が、そこで止まった。


 振り返ると、二人の女性が私を見て、顔を赤くしていた。



 私はしばらく、その二人を見た。


 怒りは——なかった。


 少し、疲れた。ただ、それだけだった。


「……おはようございます」と私は言った。「お邪魔しました」


 そのまま、薬草商の方に向き直った。


 フェンが静かに私の隣に来た。


「……大丈夫か」


「大丈夫です」


「嘘をつくな」


「……少しだけ、疲れました。でも、大丈夫です」



 買い物を終えて研究所に戻ると、殿下から手紙が来ていた。


「今日、伺っていいですか」


 私は返事を書いた。「どうぞ」


 ナーシャが「何かありましたか」と聞いた。


「……市場で、少し耳に入りました。噂を」


「噂、ですか」


「殿下の言っていた、過去を掘り起こす動きが——こちらにも来ているようです」



 殿下が昼前に来た。


 縁側に座って、お茶を出してから、話した。


 殿下が静かに聞いていた。


「……そうですか」と殿下は言った。「申し訳ないです」


「殿下が謝ることではないです」


「でも——俺が選んだことで、あなたに聞こえてほしくないものが聞こえた」


「それは」と私は言った。「いつかは聞こえることでした。今日でなくても、明日か来月か——いずれかに」



「……怒りは、なかったですか」と殿下が聞いた。


「怒りは——なかったです。疲れました、少し。でも」


「でも」


「事実と違うことを言われたわけではないので。離縁したのは本当のことです。ただ——理由まで正しく伝わっているかどうかは、私には関係ない」


 殿下がしばらく、私を見た。


「……強いですね」


「強くはないです。ただ——七年間、ずっと人の目を気にして生きていたので。今更、噂を怖れるより、自分が何者かを知っている方が大事だと思いました」



 フェンが「それが、お前が変わったところだ」と言った。


「前は違いましたか」


「前は——人の目が、全てだった。今は違う」


 私はしばらく、その言葉を受け取った。


 そうかもしれない。以前は、誰かに何か言われるたびに、胃が痛くなった。今は——痛くない。疲れはする。でも、揺れない。


「……変われましたね」


「変わった。お前は、ちゃんと変わった」



「俺も、動きます」と殿下が言った。「噂の出所を特定して、対処します」


「お願いします。でも——無理をしないでください」


「無理とは」


「昨日みたいに、一人で抱えないでください」


 殿下が少し、口元を緩めた。


「……わかりました。また、ここに来ます」


「来てください」



 夕方、ナーシャが言った。


「……先生、市場の人たちのこと、怒らないんですか」


「怒っても、何も変わらないので」


「でも」


「悪い人たちではないと思います。知らないことを、知っている範囲で話しているだけで」


 ナーシャがしばらく黙った。


「……先生は、やさしいですね」


「やさしいより——疲れたくないだけです」


 ナーシャが「えへへ」と笑った。


 私も、少し笑った。


 疲れない方を選べるようになったのも——変わった、ということなのかもしれなかった。


(第84話へ続く)

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