第83話「町の声」
その日、薬草の買い出しで市場に出かけた。
フェンが隣を歩いていた。
秋も終わりの市場は、根菜と保存食が多くなる時期だった。いつもの薬草商の棚を見ていると——隣の布屋の方から、声が聞こえた。
聞こえてしまった、という方が正確だった。
◆
「……そういえば、薬師のエリーゼ先生って、以前は別の家門に嫁いでいたんですって」
「知ってる知ってる。離縁されたって話でしょ」
「でもあれって、向こうに愛人の子ができたからじゃないの」
「そうそう。ちょっとかわいそうよね。そんな方が王子様と——」
声が、そこで止まった。
振り返ると、二人の女性が私を見て、顔を赤くしていた。
◆
私はしばらく、その二人を見た。
怒りは——なかった。
少し、疲れた。ただ、それだけだった。
「……おはようございます」と私は言った。「お邪魔しました」
そのまま、薬草商の方に向き直った。
フェンが静かに私の隣に来た。
「……大丈夫か」
「大丈夫です」
「嘘をつくな」
「……少しだけ、疲れました。でも、大丈夫です」
◆
買い物を終えて研究所に戻ると、殿下から手紙が来ていた。
「今日、伺っていいですか」
私は返事を書いた。「どうぞ」
ナーシャが「何かありましたか」と聞いた。
「……市場で、少し耳に入りました。噂を」
「噂、ですか」
「殿下の言っていた、過去を掘り起こす動きが——こちらにも来ているようです」
◆
殿下が昼前に来た。
縁側に座って、お茶を出してから、話した。
殿下が静かに聞いていた。
「……そうですか」と殿下は言った。「申し訳ないです」
「殿下が謝ることではないです」
「でも——俺が選んだことで、あなたに聞こえてほしくないものが聞こえた」
「それは」と私は言った。「いつかは聞こえることでした。今日でなくても、明日か来月か——いずれかに」
◆
「……怒りは、なかったですか」と殿下が聞いた。
「怒りは——なかったです。疲れました、少し。でも」
「でも」
「事実と違うことを言われたわけではないので。離縁したのは本当のことです。ただ——理由まで正しく伝わっているかどうかは、私には関係ない」
殿下がしばらく、私を見た。
「……強いですね」
「強くはないです。ただ——七年間、ずっと人の目を気にして生きていたので。今更、噂を怖れるより、自分が何者かを知っている方が大事だと思いました」
◆
フェンが「それが、お前が変わったところだ」と言った。
「前は違いましたか」
「前は——人の目が、全てだった。今は違う」
私はしばらく、その言葉を受け取った。
そうかもしれない。以前は、誰かに何か言われるたびに、胃が痛くなった。今は——痛くない。疲れはする。でも、揺れない。
「……変われましたね」
「変わった。お前は、ちゃんと変わった」
◆
「俺も、動きます」と殿下が言った。「噂の出所を特定して、対処します」
「お願いします。でも——無理をしないでください」
「無理とは」
「昨日みたいに、一人で抱えないでください」
殿下が少し、口元を緩めた。
「……わかりました。また、ここに来ます」
「来てください」
◆
夕方、ナーシャが言った。
「……先生、市場の人たちのこと、怒らないんですか」
「怒っても、何も変わらないので」
「でも」
「悪い人たちではないと思います。知らないことを、知っている範囲で話しているだけで」
ナーシャがしばらく黙った。
「……先生は、やさしいですね」
「やさしいより——疲れたくないだけです」
ナーシャが「えへへ」と笑った。
私も、少し笑った。
疲れない方を選べるようになったのも——変わった、ということなのかもしれなかった。
(第84話へ続く)




