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第82話「今日は私が」

 十一月に入った頃、殿下がいつもより疲れた顔で来た。


 気づいたのはフェンだった。


「……顔色が悪い」


 殿下が少し苦笑した。「そうですか」


「隠せていない」


「隠すつもりはないですが——気づかれるとは思っていませんでした」


 私はお茶を用意しながら、殿下をよく見た。


 確かに、目の下に影があった。肩も、いつもより落ちていた。



「……眠れていませんか」と私は聞いた。


「少し。王城の方が、慌ただしくなっていまして」


「婚約の件で」


「それも含めて」と殿下が静かに言った。「発表が近づくにつれて——反対する動きが、少し具体的になっています」


 私はしばらく、その言葉を受け取った。


「具体的に、というのは」


「あなたの過去を掘り起こそうとする者がいます。離縁の理由を、こちらに不利な形で広めようとする動きが」



 私は少し、胸が冷えた。


 でも——不思議と、怖くはなかった。


「……事実は変わらないですから」と私は言った。


「そうです。だから俺も対処できます。ただ——あなたに知らせておくべきだと思いまして」


「ありがとうございます」


「嫌な話をして、申し訳ないです」


「そちらこそ」と私は言った。「一人で抱えていたのですか」


「……少し」



 フェンが「馬鹿だ」と言った。


「フェン」


「ここに来れば話せるのに、抱えてくる。馬鹿だ」


 殿下が「……おっしゃる通りです」と言った。


「わかっているなら、次からはすぐ来い」


「はい」


 私はお茶を殿下の前に置いた。それから、少し迷って——台所に向かった。


「……エリーゼさん?」


「今日は、私が何か作ります。食べていきますか」



 殿下が少し、驚いた顔をした。


「……いいんですか」


「いつも殿下に気を遣っていただいているので。今日は、私が」


「気を遣ってもらいたくて来ているわけでは——」


「わかっています」と私は言った。「でも、私がしたいので」


 殿下がしばらく、私を見た。


「……ありがとうございます」



 台所で、温かいスープを作った。


 生姜と根菜と、干したハーブを少し。身体が温まって、眠りやすくなる配合だった。


 ナーシャが来て「あ、私も手伝います」と言って、パンを切り始めた。


 殿下が縁側から「……いい匂いがします」と言った。


「もう少しで出来ます」


「俺、こういうふうに待ったことが——あまりなかったかもしれません」


「どういうふうに」


「誰かが自分のために、何かを作ってくれるのを、待つ、ということ」



 三人でスープを食べた。


 殿下が一口飲んで、静かに目を閉じた。


「……おいしいですね」


「身体が温まる配合にしました。今夜は、眠れると思います」


「薬師の腕ですね」


「食事も薬のうちです」


 ナーシャが「先生のスープ、本当に効くんですよ。私も風邪のときに飲んで、すぐ良くなりました」と言った。


「そうですか」と殿下が言った。「俺も、弟子になれますか」


「殿下は王子なので、弟子にはなれません」


「残念です」



 食事が終わって、縁側に出た。


 秋の夜の空気が、静かに流れていた。


「……少し、楽になりました」と殿下が言った。


「眠れそうですか」


「はい。——来てよかったです」


「これからも、疲れたら来てください」と私は言った。「隠さなくていいです」


 殿下がこちらを見た。


「……それは、俺がいつもあなたに言っていることですね」


「お互いに、ということで」



 フェンが「ようやくわかったか」と言った。


「何がですか」


「一人で抱えなくていい、ということだ。お前も、あいつも」


 私は少し、笑った。


「フェンは、ずっとそれを言っていましたね」


「言っていた。ようやく二人とも聞く気になった」


 殿下が「フェンリルには、かないませんね」と言った。


「当然だ」


 夜の研究所に、静かな笑いが流れた。


 お互いの疲れを、お互いで支えられる——そういう関係に、なっていた。


(第83話へ続く)

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