第82話「今日は私が」
十一月に入った頃、殿下がいつもより疲れた顔で来た。
気づいたのはフェンだった。
「……顔色が悪い」
殿下が少し苦笑した。「そうですか」
「隠せていない」
「隠すつもりはないですが——気づかれるとは思っていませんでした」
私はお茶を用意しながら、殿下をよく見た。
確かに、目の下に影があった。肩も、いつもより落ちていた。
◆
「……眠れていませんか」と私は聞いた。
「少し。王城の方が、慌ただしくなっていまして」
「婚約の件で」
「それも含めて」と殿下が静かに言った。「発表が近づくにつれて——反対する動きが、少し具体的になっています」
私はしばらく、その言葉を受け取った。
「具体的に、というのは」
「あなたの過去を掘り起こそうとする者がいます。離縁の理由を、こちらに不利な形で広めようとする動きが」
◆
私は少し、胸が冷えた。
でも——不思議と、怖くはなかった。
「……事実は変わらないですから」と私は言った。
「そうです。だから俺も対処できます。ただ——あなたに知らせておくべきだと思いまして」
「ありがとうございます」
「嫌な話をして、申し訳ないです」
「そちらこそ」と私は言った。「一人で抱えていたのですか」
「……少し」
◆
フェンが「馬鹿だ」と言った。
「フェン」
「ここに来れば話せるのに、抱えてくる。馬鹿だ」
殿下が「……おっしゃる通りです」と言った。
「わかっているなら、次からはすぐ来い」
「はい」
私はお茶を殿下の前に置いた。それから、少し迷って——台所に向かった。
「……エリーゼさん?」
「今日は、私が何か作ります。食べていきますか」
◆
殿下が少し、驚いた顔をした。
「……いいんですか」
「いつも殿下に気を遣っていただいているので。今日は、私が」
「気を遣ってもらいたくて来ているわけでは——」
「わかっています」と私は言った。「でも、私がしたいので」
殿下がしばらく、私を見た。
「……ありがとうございます」
◆
台所で、温かいスープを作った。
生姜と根菜と、干したハーブを少し。身体が温まって、眠りやすくなる配合だった。
ナーシャが来て「あ、私も手伝います」と言って、パンを切り始めた。
殿下が縁側から「……いい匂いがします」と言った。
「もう少しで出来ます」
「俺、こういうふうに待ったことが——あまりなかったかもしれません」
「どういうふうに」
「誰かが自分のために、何かを作ってくれるのを、待つ、ということ」
◆
三人でスープを食べた。
殿下が一口飲んで、静かに目を閉じた。
「……おいしいですね」
「身体が温まる配合にしました。今夜は、眠れると思います」
「薬師の腕ですね」
「食事も薬のうちです」
ナーシャが「先生のスープ、本当に効くんですよ。私も風邪のときに飲んで、すぐ良くなりました」と言った。
「そうですか」と殿下が言った。「俺も、弟子になれますか」
「殿下は王子なので、弟子にはなれません」
「残念です」
◆
食事が終わって、縁側に出た。
秋の夜の空気が、静かに流れていた。
「……少し、楽になりました」と殿下が言った。
「眠れそうですか」
「はい。——来てよかったです」
「これからも、疲れたら来てください」と私は言った。「隠さなくていいです」
殿下がこちらを見た。
「……それは、俺がいつもあなたに言っていることですね」
「お互いに、ということで」
◆
フェンが「ようやくわかったか」と言った。
「何がですか」
「一人で抱えなくていい、ということだ。お前も、あいつも」
私は少し、笑った。
「フェンは、ずっとそれを言っていましたね」
「言っていた。ようやく二人とも聞く気になった」
殿下が「フェンリルには、かないませんね」と言った。
「当然だ」
夜の研究所に、静かな笑いが流れた。
お互いの疲れを、お互いで支えられる——そういう関係に、なっていた。
(第83話へ続く)




