第80話「冬に向けて」
秋が深まった頃、殿下が少し改まった顔で来た。
縁側でお茶を出すと、殿下がしばらく庭を見てから、静かに言った。
「……一つ、話があります。少し、大事なことです」
「はい」
「婚約の正式発表について——日程が決まりました」
◆
私はしばらく、その言葉を受け取った。
「……いつですか」
「冬至の前後、十二月の初旬を予定しています。父上と相談して、その日に決めました」
「……そうですか」
「急かしているわけではないですが——あなたに、早めに知らせておきたかった」
私は少し、胸の中が静かに動いた。
怖いのか、嬉しいのか——両方、少しずつあった。
「……わかりました」と私は言った。「ありがとうございます、教えてくださって」
◆
「何か、不安なことはありますか」と殿下が聞いた。
「……いくつか」
「聞かせてください」
「王城での生活に——馴染めるかどうか。研究所のことも、ナーシャのことも、ある程度目処はつけてありますが。それでも——まったく違う場所に行くのは、少し、怖いです」
殿下が静かに頷いた。
「怖いのは、当然です。急に慣れなくていいです」
「でも——怖いと言うたびに、殿下に心配をかけてしまいます」
「心配するのは俺の方です。あなたが心配してくれなくていいです」
◆
フェンが「他には」と言った。
「……もう一つは」と私は言った。「反対している方々のことです。婚約が正式になれば、今より声が大きくなるかもしれない」
「なります」と殿下が率直に言った。「それは、否定しません。ただ——俺は、対処します。あなたが矢面に立つ必要はないです」
「でも、全部を防ぐことは——」
「できないです」と殿下が静かに言った。「俺にも、できないことはあります。ただ——あなたのそばにいることは、できます。ずっと」
◆
しばらく、二人で庭を見ていた。
銀杏の葉が、黄色く色づき始めていた。
「……殿下は、怖くないですか」と私は聞いた。
「何が」
「正式に発表することで——いろいろなことが動く。それが」
殿下がしばらく考えた。
「怖い、というより——覚悟しています。ずっと前から」
「ずっと前から」
「あなたと一緒にいると決めたときから、これがどういうことかは、わかっていました。それでも——それがいい、と思いました」
◆
フェンが立ち上がって、殿下の隣に座った。
殿下が少し驚いた顔をして、それから静かに目を細めた。
「フェンリル」
「……お前は、覚悟がある」とフェンが言った。「だが——エリーゼが傷つくときは、俺がいる。それを忘れるな」
「忘れません」
「よし」
私は、その二人を見ていた。
この人と、この聖獣と——共に進んでいく。
それが、少しずつ現実になっていた。
◆
夕方、殿下が帰り際に小さな包みを取り出した。
「……これを」
「何ですか」
「冬になる前に、と思っていました。開けてみてください」
小さな布の包みを開くと、中に細い銀の簪が入っていた。先端に、小さな薬草の意匠が施されていた。
「……これは」
「仕立屋と同じ職人に頼みました。服の刺繍と、同じモチーフで」
私はしばらく、その簪を見つめた。
薬草の細工が、夕暮れの光の中で静かに輝いていた。
「……あなたらしいものを、と思いました」と殿下が言った。「派手ではなく、でも——ちゃんとそこにある」
◆
私は少し、目が滲んだ。
泣かない、と思った。でも——この人は、いつも、思いがけないところで。
「……ありがとうございます」
「似合いますか」
「わかりません。でも——大切にします」
「それで十分です」
◆
殿下が帰ったあと、フェンが簪を見た。
「……なかなかいいものだ」
「そうですか」
「あいつは、センスがある」
「珍しいですね、フェンが褒めるのは」
「褒めていない。評価している」
私はその言葉を聞いて、少し笑った。
手の中の簪が、秋の灯りの中で温かく光っていた。
冬が来る。正式な発表が来る。いろいろなことが動く。
でも——この重みがある。この光がある。
それだけで、進んでいける気がした。
(第81話へ続く)




