表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
80/182

第80話「冬に向けて」

 秋が深まった頃、殿下が少し改まった顔で来た。


 縁側でお茶を出すと、殿下がしばらく庭を見てから、静かに言った。


「……一つ、話があります。少し、大事なことです」


「はい」


「婚約の正式発表について——日程が決まりました」



 私はしばらく、その言葉を受け取った。


「……いつですか」


「冬至の前後、十二月の初旬を予定しています。父上と相談して、その日に決めました」


「……そうですか」


「急かしているわけではないですが——あなたに、早めに知らせておきたかった」


 私は少し、胸の中が静かに動いた。


 怖いのか、嬉しいのか——両方、少しずつあった。


「……わかりました」と私は言った。「ありがとうございます、教えてくださって」



「何か、不安なことはありますか」と殿下が聞いた。


「……いくつか」


「聞かせてください」


「王城での生活に——馴染めるかどうか。研究所のことも、ナーシャのことも、ある程度目処はつけてありますが。それでも——まったく違う場所に行くのは、少し、怖いです」


 殿下が静かに頷いた。


「怖いのは、当然です。急に慣れなくていいです」


「でも——怖いと言うたびに、殿下に心配をかけてしまいます」


「心配するのは俺の方です。あなたが心配してくれなくていいです」



 フェンが「他には」と言った。


「……もう一つは」と私は言った。「反対している方々のことです。婚約が正式になれば、今より声が大きくなるかもしれない」


「なります」と殿下が率直に言った。「それは、否定しません。ただ——俺は、対処します。あなたが矢面に立つ必要はないです」


「でも、全部を防ぐことは——」


「できないです」と殿下が静かに言った。「俺にも、できないことはあります。ただ——あなたのそばにいることは、できます。ずっと」



 しばらく、二人で庭を見ていた。


 銀杏の葉が、黄色く色づき始めていた。


「……殿下は、怖くないですか」と私は聞いた。


「何が」


「正式に発表することで——いろいろなことが動く。それが」


 殿下がしばらく考えた。


「怖い、というより——覚悟しています。ずっと前から」


「ずっと前から」


「あなたと一緒にいると決めたときから、これがどういうことかは、わかっていました。それでも——それがいい、と思いました」



 フェンが立ち上がって、殿下の隣に座った。


 殿下が少し驚いた顔をして、それから静かに目を細めた。


「フェンリル」


「……お前は、覚悟がある」とフェンが言った。「だが——エリーゼが傷つくときは、俺がいる。それを忘れるな」


「忘れません」


「よし」


 私は、その二人を見ていた。


 この人と、この聖獣と——共に進んでいく。


 それが、少しずつ現実になっていた。



 夕方、殿下が帰り際に小さな包みを取り出した。


「……これを」


「何ですか」


「冬になる前に、と思っていました。開けてみてください」


 小さな布の包みを開くと、中に細い銀の簪が入っていた。先端に、小さな薬草の意匠が施されていた。


「……これは」


「仕立屋と同じ職人に頼みました。服の刺繍と、同じモチーフで」


 私はしばらく、その簪を見つめた。


 薬草の細工が、夕暮れの光の中で静かに輝いていた。


「……あなたらしいものを、と思いました」と殿下が言った。「派手ではなく、でも——ちゃんとそこにある」



 私は少し、目が滲んだ。


 泣かない、と思った。でも——この人は、いつも、思いがけないところで。


「……ありがとうございます」


「似合いますか」


「わかりません。でも——大切にします」


「それで十分です」



 殿下が帰ったあと、フェンが簪を見た。


「……なかなかいいものだ」


「そうですか」


「あいつは、センスがある」


「珍しいですね、フェンが褒めるのは」


「褒めていない。評価している」


 私はその言葉を聞いて、少し笑った。


 手の中の簪が、秋の灯りの中で温かく光っていた。


 冬が来る。正式な発表が来る。いろいろなことが動く。


 でも——この重みがある。この光がある。


 それだけで、進んでいける気がした。


(第81話へ続く)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ