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第79話「夕食」

 ある日の夕方、殿下が帰りそびれた。


 正確には——帰ろうとして、庭でナーシャに捕まった。


「殿下、今日、夕ごはんまだですよね」


「……はい」


「食べていきませんか。今日は先生が煮込みを作っています」


 殿下が私を見た。私はナーシャを見た。


「……ナーシャ」


「いいじゃないですか。殿下、研究所で夕ごはん食べたことないですよね」


「ないです」


「じゃあ決まりです」



 こうして、殿下が夕食に残ることになった。


 台所では、鶏肉と根菜の煮込みが火にかかっていた。パンも焼いてあった。ナーシャが「お皿を多めに出します」と張り切って動き始めた。


 殿下が「手伝えることはありますか」と言った。


「……お茶を入れてもらえますか。棚の上の、緑の缶のものです」


「わかりました」


 殿下が静かに台所に立った。


 研究所の小さな台所に、殿下がいる。その光景が、少し不思議だった。



「先生、殿下ってお料理しますか」とナーシャが小声で聞いた。


「さあ……」


「王城でするわけないですよね。でも、なんか様になってますよね」


「……余計なことを言わなくていいです」


「えへへ」


 殿下がお茶を持って縁側に来た。


「お茶、これで合っていますか」


 私はカップを受け取って、一口飲んだ。


「……合っています。ありがとうございます」


「よかった」



 煮込みが仕上がって、三人で食卓を囲んだ。


 フェンは縁側で、自分の分の干し肉を静かに食べていた。


「……いただきます」と殿下が言った。


 一口食べて、少し目を細めた。


「おいしいですね」


「薬草を少し入れています。身体が温まるように」


「なるほど。——何を入れているんですか」


「ローズマリーと、少しのタイム。それから、今日は秋の根菜なので、生姜も少し」


「薬師らしいですね」


「食事と薬は、近いものだと思っています。毎日食べるものが、身体を作るので」



 ナーシャが「殿下は王城でどんなものを食べているんですか」と聞いた。


「……正直に言うと、あまり覚えていないです」


「覚えていない?」


「食事のたびに人が多くて、話すことが多くて——何を食べたか、気がついたら忘れています」


「それは、もったいないですね」とナーシャが言った。


「そうですね。——今日は、ちゃんと覚えていると思います」


 私は少し、その言葉が胸に残った。



 食事が終わって、ナーシャが片づけを始めた。


 殿下が「手伝います」と言って立ち上がった。


「いいです、殿下」


「いいえ、手伝わせてください」


 殿下とナーシャが並んで洗い物をした。


 私は縁側に出て、その様子を横から見ていた。


 殿下が慣れない手つきでお皿を洗っている。ナーシャが「こうやってすすぐといいです」と教えている。殿下が「なるほど」と真剣に頷いている。


 フェンが私の隣に来た。


「……見ているのか」


「見ています」


「どう見える」


 私はしばらく考えた。


「……普通に見えます」


「普通」


「特別な人ではなくて——ただ、ここにいる人に見えます。それが、なんだか」


「なんだか」


「嬉しいです」



 片づけが終わって、三人と一匹でまた縁側に座った。


 秋の夜の空気は、すでに少し冷たかった。星が出ていた。


「……星が、よく見えますね」と殿下が言った。


「王城では見えないですか」


「明かりが多くて。——こんなにはっきりは、見えません」


 ナーシャが「あの星、名前がありますか」と聞いた。


「北の方の、あれは航海星です。船乗りが方角を確かめるのに使います」


「先生、知ってるんですか」


「薬草の本に、少し書いてありました。採取の季節を星で判断する方法が」



 しばらく、三人で星を見ていた。


 フェンが静かに目を閉じていた。


 殿下がぽつりと言った。


「……こういう夜が、好きです」


「どんなところが」


「急かされない。何かをしなければならない、ということがない。ただ——いる、だけでいい」


 私はその言葉を、静かに受け取った。


「殿下は、いつもどこかで急かされているのですか」


「……慣れているので、気づかないことの方が多いです。でも——ここに来ると、気づきます。ああ、普段は急かされていたのだと」


「それは、辛くないですか」


「辛い、とは少し違います。——ここがあるから、向こうに戻れる、という感じです」



 ナーシャが眠くなってきたようで、あくびをしながら「先に失礼します」と言った。


「おやすみなさい、ナーシャ」


「おやすみなさいませ、殿下」


「おやすみなさい。今日は、ごちそうさまでした」


 ナーシャが嬉しそうに頷いて、部屋に消えた。



 二人になった。


 フェンが縁側の端で、静かに星を見ていた。


「……一つ、聞いていいですか」と殿下が言った。


「はい」


「エリーゼさんは——俺が来ることを、今も、負担に思っていますか」


 私は少し、驚いた。


「負担?」


「最初の頃は——来るたびに、少し緊張させていたと思います。今はどうかと、ふと思いまして」


 私はしばらく考えた。


「……今は、負担ではないです」


「本当に」


「本当に。——殿下が来る日の方が、来ない日より、少し明るい気がします」



 殿下が静かにこちらを見た。


「……それを聞けて、よかったです」


「なぜ聞いたのですか」


「昨日の話——七年間のことを聞いて。俺も、誰かに近くにいられることが、負担になることがあるのだと、改めて思いました。だから」


「……そんな心配を、していてくださったのですか」


「していました」


 私は少し、目が滲みそうになった。


 泣かない、と思った。でも——こういうとき、この人の言葉は、思いがけないところに届く。


「……ありがとうございます」


「お礼を言わないでください。俺が聞きたかっただけなので」



 殿下が帰る前に、フェンが一言言った。


「また来い」


 殿下が少し、目を丸くした。


「……フェンリルに、そう言ってもらえるとは思いませんでした」


「一度しか言わない」


「肝に銘じます」


 私はその二人を見て、静かに笑った。


 夜の研究所に、笑い声が響いた。


 それが——とても、自然だった。


(第80話へ続く)

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