第79話「夕食」
ある日の夕方、殿下が帰りそびれた。
正確には——帰ろうとして、庭でナーシャに捕まった。
「殿下、今日、夕ごはんまだですよね」
「……はい」
「食べていきませんか。今日は先生が煮込みを作っています」
殿下が私を見た。私はナーシャを見た。
「……ナーシャ」
「いいじゃないですか。殿下、研究所で夕ごはん食べたことないですよね」
「ないです」
「じゃあ決まりです」
◆
こうして、殿下が夕食に残ることになった。
台所では、鶏肉と根菜の煮込みが火にかかっていた。パンも焼いてあった。ナーシャが「お皿を多めに出します」と張り切って動き始めた。
殿下が「手伝えることはありますか」と言った。
「……お茶を入れてもらえますか。棚の上の、緑の缶のものです」
「わかりました」
殿下が静かに台所に立った。
研究所の小さな台所に、殿下がいる。その光景が、少し不思議だった。
◆
「先生、殿下ってお料理しますか」とナーシャが小声で聞いた。
「さあ……」
「王城でするわけないですよね。でも、なんか様になってますよね」
「……余計なことを言わなくていいです」
「えへへ」
殿下がお茶を持って縁側に来た。
「お茶、これで合っていますか」
私はカップを受け取って、一口飲んだ。
「……合っています。ありがとうございます」
「よかった」
◆
煮込みが仕上がって、三人で食卓を囲んだ。
フェンは縁側で、自分の分の干し肉を静かに食べていた。
「……いただきます」と殿下が言った。
一口食べて、少し目を細めた。
「おいしいですね」
「薬草を少し入れています。身体が温まるように」
「なるほど。——何を入れているんですか」
「ローズマリーと、少しのタイム。それから、今日は秋の根菜なので、生姜も少し」
「薬師らしいですね」
「食事と薬は、近いものだと思っています。毎日食べるものが、身体を作るので」
◆
ナーシャが「殿下は王城でどんなものを食べているんですか」と聞いた。
「……正直に言うと、あまり覚えていないです」
「覚えていない?」
「食事のたびに人が多くて、話すことが多くて——何を食べたか、気がついたら忘れています」
「それは、もったいないですね」とナーシャが言った。
「そうですね。——今日は、ちゃんと覚えていると思います」
私は少し、その言葉が胸に残った。
◆
食事が終わって、ナーシャが片づけを始めた。
殿下が「手伝います」と言って立ち上がった。
「いいです、殿下」
「いいえ、手伝わせてください」
殿下とナーシャが並んで洗い物をした。
私は縁側に出て、その様子を横から見ていた。
殿下が慣れない手つきでお皿を洗っている。ナーシャが「こうやってすすぐといいです」と教えている。殿下が「なるほど」と真剣に頷いている。
フェンが私の隣に来た。
「……見ているのか」
「見ています」
「どう見える」
私はしばらく考えた。
「……普通に見えます」
「普通」
「特別な人ではなくて——ただ、ここにいる人に見えます。それが、なんだか」
「なんだか」
「嬉しいです」
◆
片づけが終わって、三人と一匹でまた縁側に座った。
秋の夜の空気は、すでに少し冷たかった。星が出ていた。
「……星が、よく見えますね」と殿下が言った。
「王城では見えないですか」
「明かりが多くて。——こんなにはっきりは、見えません」
ナーシャが「あの星、名前がありますか」と聞いた。
「北の方の、あれは航海星です。船乗りが方角を確かめるのに使います」
「先生、知ってるんですか」
「薬草の本に、少し書いてありました。採取の季節を星で判断する方法が」
◆
しばらく、三人で星を見ていた。
フェンが静かに目を閉じていた。
殿下がぽつりと言った。
「……こういう夜が、好きです」
「どんなところが」
「急かされない。何かをしなければならない、ということがない。ただ——いる、だけでいい」
私はその言葉を、静かに受け取った。
「殿下は、いつもどこかで急かされているのですか」
「……慣れているので、気づかないことの方が多いです。でも——ここに来ると、気づきます。ああ、普段は急かされていたのだと」
「それは、辛くないですか」
「辛い、とは少し違います。——ここがあるから、向こうに戻れる、という感じです」
◆
ナーシャが眠くなってきたようで、あくびをしながら「先に失礼します」と言った。
「おやすみなさい、ナーシャ」
「おやすみなさいませ、殿下」
「おやすみなさい。今日は、ごちそうさまでした」
ナーシャが嬉しそうに頷いて、部屋に消えた。
◆
二人になった。
フェンが縁側の端で、静かに星を見ていた。
「……一つ、聞いていいですか」と殿下が言った。
「はい」
「エリーゼさんは——俺が来ることを、今も、負担に思っていますか」
私は少し、驚いた。
「負担?」
「最初の頃は——来るたびに、少し緊張させていたと思います。今はどうかと、ふと思いまして」
私はしばらく考えた。
「……今は、負担ではないです」
「本当に」
「本当に。——殿下が来る日の方が、来ない日より、少し明るい気がします」
◆
殿下が静かにこちらを見た。
「……それを聞けて、よかったです」
「なぜ聞いたのですか」
「昨日の話——七年間のことを聞いて。俺も、誰かに近くにいられることが、負担になることがあるのだと、改めて思いました。だから」
「……そんな心配を、していてくださったのですか」
「していました」
私は少し、目が滲みそうになった。
泣かない、と思った。でも——こういうとき、この人の言葉は、思いがけないところに届く。
「……ありがとうございます」
「お礼を言わないでください。俺が聞きたかっただけなので」
◆
殿下が帰る前に、フェンが一言言った。
「また来い」
殿下が少し、目を丸くした。
「……フェンリルに、そう言ってもらえるとは思いませんでした」
「一度しか言わない」
「肝に銘じます」
私はその二人を見て、静かに笑った。
夜の研究所に、笑い声が響いた。
それが——とても、自然だった。
(第80話へ続く)




