第78話「七年間のこと」
夏が深まると、研究所の仕事が少し落ち着く。
暑さで患者が増える月もあるが、この年の夏は穏やかで、来客は普段より少なかった。午後に時間が空くことが多くなった。
殿下は相変わらず、週に何度か来た。
ある日、二人で縁側に座って、お茶を飲んでいると——殿下が少し、迷うような顔をした。
「……聞いていいですか。以前の話を」
「以前というのは」
「七年間のことです。あなたが話せる範囲で」
私はしばらく、お茶の表面を見た。
「……聞きたいのですか」
「聞きたいです。ただ——辛ければ、話さなくていいです」
◆
私は少し考えた。
七年間。ウィレムの妻だった、七年間。
それは——何と表現すればいいのか、いまだにうまく言葉にならない。
「……辛い、というよりは」と私は言った。「霞がかかったような時間でした」
「霞」
「はっきり見えない感じです。毎日、何かをしていた。朝起きて、食事を準備して、客の応対をして、夜になって——でも、何のためにそうしているのか、考えないようにしていました」
「考えないようにしていた」
「考えると、怖かったので」
◆
殿下が黙って聞いていた。
それが——話しやすかった。
「最初の頃は、違いました。期待していました、少し。新しい家族ができる、新しい生活が始まると。でも——半年もしないうちに、気づきました。私が何を言っても、あの人には届かない」
「届かない、とは」
「意見が合わないとかではなく——私という人間が、見えていないのだと思います。妻という役割は必要だった。でも——エリーゼという人間には、興味がなかった」
◆
フェンが縁側から静かに近づいてきて、私の足元に伏せた。
その重みが、少し落ち着かせてくれた。
「七年間、一度も——あなたらしいと言われたことはありましたか」とフェンが聞いた。
「……なかったです」
「そうか」
「あなたらしい、という言葉を——殿下に初めて言われたとき、何のことかわからなかったです。私らしい、というものが、自分でもわからなくなっていたので」
◆
「今は」と殿下が静かに聞いた。
「今は——少し、わかります。薬草が好きで、患者さんと話すのが好きで、フェンと縁側でお茶を飲むのが好きで」
「それが、あなたです」
「そうかもしれません。でも——取り戻すのに、時間がかかりました。ここに来てから、一年以上かかりました」
「一年以上」
「最初の半年は、毎晩誰かの顔色を窺う夢を見ていました。目が覚めると——ここは静かで、怒鳴り声もなくて、そのことに安心する自分がいて。安心することに、また少し傷ついた」
「安心することに、傷つく」
「……おかしいですか」
「おかしくないです」と殿下がすぐに言った。「安心できる場所があると気づいたとき——それまでの場所がいかに安心できなかったかが、わかる。だから、傷つく」
◆
私はしばらく、その言葉を胸の中で転がした。
殿下は、わかる人だと思った。言葉を軽くしない。受け取ってから、返す。
「……殿下は、王城で育って、窮屈ではなかったですか」
少し、話を変えたかった。自分のことばかり話すのが、少し恥ずかしくなった。
「窮屈でした」と殿下が言った。「ただ——俺の場合は、そういうものだと思っていました。生まれた場所だから」
「でも、好きではなかった?」
「好き嫌いより——自分がどこにいると楽かを、考えたことがなかったです。ここに来るようになってから、初めて考えました」
「ここが、楽ですか」
「とても」
◆
庭でラベンダーが揺れていた。
夏の昼下がりの、静かな風だった。
「……一つだけ、聞いていいですか」と私は言った。
「なんですか」
「殿下が私を選んだのは——最初、なぜだったのですか。私のことを何も知らなかった頃に」
殿下がしばらく考えた。
「最初に会ったとき——あなたは、俺のことを特別扱いしなかったです」
「そうでしたか」
「王子だからと、媚びなかった。怯えもしなかった。ただ——目の前の患者を診るように、俺を見た。それが……初めての経験でした」
「それだけですか」
「それだけで、十分でした」と殿下が静かに言った。「その目で見てもらえる人間でいたいと思った。それが、最初です」
◆
私は少し、胸が詰まった。
媚びなかった、というより——媚びる余裕が、あの頃はなかった。ただ目の前の仕事をこなすだけで、精一杯だった。
でも——それが、誰かの目に映っていた。
「……私は、殿下が来るたびに、少しずつ変わった気がします」
「変わった?」
「最初は、また誰かが来た、と思っていました。どんな人か、早く判断しなければと思っていました。でも——殿下は、急かさなかった。ただ来て、座って、帰っていく。それが続くうちに……怖くなくなりました」
「俺が、ですか」
「人が、です」
◆
殿下がしばらく、庭を見ていた。
「……俺は——あなたに、恐ろしいことをさせてしまったかもしれないと、ときどき思います」
「何がですか」
「王城の茶会に連れていったこと。宮廷の話をしたこと。あなたには、静かにここにいる権利があるのに」
「それは」と私は言った。「私が選んだことです」
「でも」
「殿下が俺が選んだことですと言ったように——私も、選んでいます。行くと決めたのは、私です」
◆
殿下が私を見た。
何か、言いたそうな顔だった。でも——言葉にならないまま、少し経ってから、静かに言った。
「……あなたは、強いですね」
「そうでもないです」
「強いと思います。折れないのではなく——折れながら、立ち直り続けている。それが、本当の強さだと思います」
私はしばらく、その言葉を受け取った。
折れながら。
そうかもしれない。折れていなかったわけではない。ただ——折れるたびに、またここに立ち戻ってきた。研究所に、薬草に、フェンに、そして——今は、この人にも。
「……ありがとうございます」
「お礼を言うのは、俺の方です」
「何のお礼ですか」
「話してくれたこと。——それが、嬉しかったです」
◆
フェンが「おしゃべりだ」と言った。
「フェン」
「だが——悪くない」
殿下が小さく笑った。
「フェンリルの合格点は、高いですね」
「当然だ」
夏の午後が、ゆっくりと流れていった。
話してよかった、と思った。
七年間のことを——誰かに話したのは、これが初めてだった。
(第79話へ続く)




