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第78話「七年間のこと」

 夏が深まると、研究所の仕事が少し落ち着く。


 暑さで患者が増える月もあるが、この年の夏は穏やかで、来客は普段より少なかった。午後に時間が空くことが多くなった。


 殿下は相変わらず、週に何度か来た。


 ある日、二人で縁側に座って、お茶を飲んでいると——殿下が少し、迷うような顔をした。


「……聞いていいですか。以前の話を」


「以前というのは」


「七年間のことです。あなたが話せる範囲で」


 私はしばらく、お茶の表面を見た。


「……聞きたいのですか」


「聞きたいです。ただ——辛ければ、話さなくていいです」



 私は少し考えた。


 七年間。ウィレムの妻だった、七年間。


 それは——何と表現すればいいのか、いまだにうまく言葉にならない。


「……辛い、というよりは」と私は言った。「霞がかかったような時間でした」


「霞」


「はっきり見えない感じです。毎日、何かをしていた。朝起きて、食事を準備して、客の応対をして、夜になって——でも、何のためにそうしているのか、考えないようにしていました」


「考えないようにしていた」


「考えると、怖かったので」



 殿下が黙って聞いていた。


 それが——話しやすかった。


「最初の頃は、違いました。期待していました、少し。新しい家族ができる、新しい生活が始まると。でも——半年もしないうちに、気づきました。私が何を言っても、あの人には届かない」


「届かない、とは」


「意見が合わないとかではなく——私という人間が、見えていないのだと思います。妻という役割は必要だった。でも——エリーゼという人間には、興味がなかった」



 フェンが縁側から静かに近づいてきて、私の足元に伏せた。


 その重みが、少し落ち着かせてくれた。


「七年間、一度も——あなたらしいと言われたことはありましたか」とフェンが聞いた。


「……なかったです」


「そうか」


「あなたらしい、という言葉を——殿下に初めて言われたとき、何のことかわからなかったです。私らしい、というものが、自分でもわからなくなっていたので」



「今は」と殿下が静かに聞いた。


「今は——少し、わかります。薬草が好きで、患者さんと話すのが好きで、フェンと縁側でお茶を飲むのが好きで」


「それが、あなたです」


「そうかもしれません。でも——取り戻すのに、時間がかかりました。ここに来てから、一年以上かかりました」


「一年以上」


「最初の半年は、毎晩誰かの顔色を窺う夢を見ていました。目が覚めると——ここは静かで、怒鳴り声もなくて、そのことに安心する自分がいて。安心することに、また少し傷ついた」


「安心することに、傷つく」


「……おかしいですか」


「おかしくないです」と殿下がすぐに言った。「安心できる場所があると気づいたとき——それまでの場所がいかに安心できなかったかが、わかる。だから、傷つく」



 私はしばらく、その言葉を胸の中で転がした。


 殿下は、わかる人だと思った。言葉を軽くしない。受け取ってから、返す。


「……殿下は、王城で育って、窮屈ではなかったですか」


 少し、話を変えたかった。自分のことばかり話すのが、少し恥ずかしくなった。


「窮屈でした」と殿下が言った。「ただ——俺の場合は、そういうものだと思っていました。生まれた場所だから」


「でも、好きではなかった?」


「好き嫌いより——自分がどこにいると楽かを、考えたことがなかったです。ここに来るようになってから、初めて考えました」


「ここが、楽ですか」


「とても」



 庭でラベンダーが揺れていた。


 夏の昼下がりの、静かな風だった。


「……一つだけ、聞いていいですか」と私は言った。


「なんですか」


「殿下が私を選んだのは——最初、なぜだったのですか。私のことを何も知らなかった頃に」


 殿下がしばらく考えた。


「最初に会ったとき——あなたは、俺のことを特別扱いしなかったです」


「そうでしたか」


「王子だからと、媚びなかった。怯えもしなかった。ただ——目の前の患者を診るように、俺を見た。それが……初めての経験でした」


「それだけですか」


「それだけで、十分でした」と殿下が静かに言った。「その目で見てもらえる人間でいたいと思った。それが、最初です」



 私は少し、胸が詰まった。


 媚びなかった、というより——媚びる余裕が、あの頃はなかった。ただ目の前の仕事をこなすだけで、精一杯だった。


 でも——それが、誰かの目に映っていた。


「……私は、殿下が来るたびに、少しずつ変わった気がします」


「変わった?」


「最初は、また誰かが来た、と思っていました。どんな人か、早く判断しなければと思っていました。でも——殿下は、急かさなかった。ただ来て、座って、帰っていく。それが続くうちに……怖くなくなりました」


「俺が、ですか」


「人が、です」



 殿下がしばらく、庭を見ていた。


「……俺は——あなたに、恐ろしいことをさせてしまったかもしれないと、ときどき思います」


「何がですか」


「王城の茶会に連れていったこと。宮廷の話をしたこと。あなたには、静かにここにいる権利があるのに」


「それは」と私は言った。「私が選んだことです」


「でも」


「殿下が俺が選んだことですと言ったように——私も、選んでいます。行くと決めたのは、私です」



 殿下が私を見た。


 何か、言いたそうな顔だった。でも——言葉にならないまま、少し経ってから、静かに言った。


「……あなたは、強いですね」


「そうでもないです」


「強いと思います。折れないのではなく——折れながら、立ち直り続けている。それが、本当の強さだと思います」


 私はしばらく、その言葉を受け取った。


 折れながら。


 そうかもしれない。折れていなかったわけではない。ただ——折れるたびに、またここに立ち戻ってきた。研究所に、薬草に、フェンに、そして——今は、この人にも。


「……ありがとうございます」


「お礼を言うのは、俺の方です」


「何のお礼ですか」


「話してくれたこと。——それが、嬉しかったです」



 フェンが「おしゃべりだ」と言った。


「フェン」


「だが——悪くない」


 殿下が小さく笑った。


「フェンリルの合格点は、高いですね」


「当然だ」


 夏の午後が、ゆっくりと流れていった。


 話してよかった、と思った。


 七年間のことを——誰かに話したのは、これが初めてだった。


(第79話へ続く)

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