第8話「フェンと過ごす日々」
フェンは、思っていたより生活感があった。
朝になると私の部屋の前で待っている。扉を開けると大きな頭をぐいと押しつけてくる。おはよう、という意味なのか、早く起きろという意味なのか、どちらかはわからない。
「……重いです、フェン」
「うるさい」
そのまましばらく押しつけてくる。白銀の毛並みが頬に当たって、ふわふわと温かかった。
追い払うのも忍びなくて、私はしばらくそのままにしていた。
◆
食事のときは、必ず隣に座る。
座る、というより、どかんと伏せる。食卓の椅子の半分くらいをふさいでしまうため、父が毎朝少し窮屈そうにしていた。
「フェンリル殿、少し詰めていただけますか」
「嫌だ」
「……なぜですか」
「エリーゼの隣がいい」
父が困り顔で私を見た。私は小さく肩をすくめた。どうしようもなかった。
母はそのうち、フェンの分の皿も用意するようになった。
フェンは最初の一口だけ確認するように嗅いで、それからあっという間に平らげた。
「美味いか」と聞くと「普通だ」と答えた。
次の日もきれいに食べていた。
◆
薬草を調合しているときは、フェンは必ず隣で伏せていた。
じっと見ているわけでもなく、眠っているわけでもない。ただ、そこにいた。
「邪魔ではないですか」
「俺が聞きたい」
「……何がですか」
「お前が作業しているとき、鼻が利く。薬草の香りが変わると教えてやれる」
実際、フェンが「それは入れすぎだ」と言い始めてから、薬の精度がぐっと上がった。
聖獣の鼻は、私の才能より正確だった。
近所の商家の娘の熱は、一晩で下がった。
翌日また別の家から人が来た。その次の日も。
一週間もしないうちに、「ヴァルハイン家に不思議な薬師がいる」という話が界隈に広まった。
◆
ある日の午後、私は縁側でフェンの毛並みを梳いていた。
特に意味はなかった。ただ、白銀の毛がもつれていたので、何となく手を動かしていた。
フェンは最初「何をする」と言ったが、気持ちよかったのかそのうち黙った。大きな体をだらりと横たえて、目を細めている。
「……気持ちいいですか」
「……別に」
「目が細くなっていますよ」
「気のせいだ」
私は笑った。
声に出して笑ったのが、いつぶりかわからなかった。
七年間、笑ったことがなかったわけではない。でも、こんなふうに、何も考えずに笑ったのは——本当に久しぶりだった。
フェンが顔を上げて、じっと私を見た。
「どうしましたか」
「……お前が笑った」
「おかしかったので」
「そうか」
フェンはそれだけ言って、また目を細めた。でも今度は、少しだけ機嫌がよさそうな顔をしていた。
「もっと笑え」
「命令ですか」
「そうだ」
「難しいご命令ですね」
「お前には難しくない」
断言するように言われて、私はまた少し笑った。
◆
夕方、カイル殿下がまた来た。
「また来てしまいました」
「……今日で三回目ですね、殿下」
「数えていたんですか」
「数えてしまいます」
殿下が少し気まずそうな顔をした。そこへフェンが悠然と割り込んで、私と殿下の間にどかんと座った。
「……フェン」
「何だ」
「邪魔です」
「邪魔ではない。俺もいる」
殿下がフェンを見て、それから私を見て、小さく息をついた。
「聖獣というのは、こういうものなのですか」
「私にもよくわかりません」
「そうですか」
三人で縁側に並んで、夕暮れを眺めた。
不思議な光景だったが、不思議と落ち着いた。
「……いい夕焼けですね」
殿下が静かに言った。
フェンが「普通だ」と言った。
私は何も言わずに、ただそれを聞いていた。
胸の中が、じんわりと温かかった。
翌日の朝、父が険しい顔で新聞を持ってきた。
「エリーゼ。ガーランド侯爵家の話が出ている」
(第9話へ続く)




