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第73話「貴族の使者」

 その日の午前中、見知らぬ馬車が研究所の前に止まった。


 御者が降りて、丁寧に扉を開けた。出てきたのは、四十がらみの上品な身なりの女性だった。貴族——それも、かなり上の家門の。


 ナーシャが「先生、お客さんです」と小声で言った。



「薬師のエリーゼ様でいらっしゃいますか」


「はい」


「わたくし、ローゼンベルク伯爵家の侍女を務めております、マルタと申します。奥様がご体調を崩されまして——かかりつけの医師では難しいと言われた症状がございまして、こちらに伺った次第です」


 私はしばらく、相手を見た。


「どのような症状ですか」



 聞くと、慢性的な頭痛と、手先の冷えが続いているということだった。医師には「気のせい」と言われ、薬を処方されても改善しない。


「お連れいただけますか」


「……奥様は馬車の中でお待ちです。外に出るのが辛うございまして」


 私は薬箱を持って、馬車に向かった。



 馬車の中の奥様は、四十代半ばの、疲れた顔をした方だった。


 視線が、私を上から下まで見た。


「……あなたが、薬師のエリーゼ様」


「はい」


「王城でも、評判を伺っています」


 私は何も言わなかった。ただ、手を取って、脈を診た。



 脈は細く、乱れていた。手が冷たかった。


「いつ頃から、このような状態ですか」


「半年ほど前から」


「眠りはどうですか」


「浅いです。夢をよく見ます」


「食事は」


「あまり進みません」


 私は少し考えた。


「身体の問題というより——長く続く緊張が、身体に出ているように思います」



 奥様がしばらく、黙った。


「……よくわかりますね」


「脈と、肌の状態を見るとわかります」


「医師には、気のせいと言われました」


「気のせいではないです」と私は言った。「身体は、ちゃんと正直です」


 奥様が、少し表情を緩めた。



 処方を説明して、飲み方を書き留めた。


 奥様が受け取りながら、静かに言った。


「……あなたは、評判通りの方ですね」


「どのような評判ですか」


「腕が確かで、物静かで——それから、殿下が足繁く通っていると」


 私は少し、間を置いた。


「通ってくださっています」


「よい選択をされましたね、殿下も」



 馬車が去ってから、ナーシャが「どんな方でしたか」と聞いた。


「具合の悪い方でした」


「貴族の方ですよね。なんか言われましたか」


「……殿下が通っているのは知っているようでした」


「怖かったですか」


 私はしばらく考えた。


「怖くはなかったです。ただ——見られているな、と思いました」



 フェンが縁側から「見られていて当然だ」と言った。


「そうですね」


「お前が何をするか、誰もが見ている。だがお前は——何もする必要はない。ただ、いつも通りにしていればいい」


 私はその言葉を、静かに受け取った。


 いつも通りに。脈を診て、薬を処方して、正直に言葉を返す。


 それが——私の場所だった。


(第74話へ続く)

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